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研究会報告

2010年度第5回(通算第11回)研究会

内容の要旨
1)「アルファオスとは「誰のこと」か?:マハレM集団のチンパンジー社会におけるアルファオスの失踪と順位下落をめぐる事例から」 (西江仁徳)
 本発表では、野生チンパンジー社会における「順位」をめぐる相互行為の分析から、チンパンジー社会の「順位」と呼ばれる現象は、「制度」の要件を満たしていることを示す。さらにこの結論を敷衍することによって、制度の進化史的基盤について考えるにあたって、どのようなアプローチが可能であるかを検討する。
 分析の素材は、タンザニア・マハレM集団のチンパンジー社会において、2003年11月〜2004年9月の間に観察された、アルファオス個体の失踪と順位下落の事例である。当該集団のアルファオスであったファナナが、2003年11月に原因不明の失踪を遂げ、その後それまで第二位オスであったアロフがアルファオスとなった。ファナナは主に単独もしくは少数個体と共に遊動を続け、アロフとの遭遇は2004年9月までの間で3回しか観察されなかった。発表ではこのうち2回の遭遇事例において、ファナナとアロフの間に交わされた「毛づくろい」と、順位の確認に用いられる「パントグラント」と呼ばれる発声を伴う対面相互行為を中心に分析をおこなった。
 この事例のような特殊な出会いの場面で、チンパンジーのオス同士がおこなう毛づくろいやパントグラントにおいては、単なる「親密さの確認」や「優劣関係の確認」といった機能的説明を超えた、ある種「過剰な」「大げさな」相互行為のやり方が、執拗に繰り返されている様子が確認された。この相互行為の形式上の「過剰さ」は、不確定性の強い出会いのコンテクストにおいて、互いの関係づけに手がかりを与えるものとして、「いつものやり方」「定型化したやり方」を繰り返している結果として現れていると考えられる。ただし、このようなかたちでの「規則性への依存」は、不安定な出会いのコンテクストを「当面乗り切る」べく「仮のもの」として運用されており、当該の関係づけに外的な根拠を与えるものではないため、「芝居がかった」「大げさな」「過剰な」やり方のように見えてしまうのだと考えられる。
 こうした「定型化」「形式化」した相互行為のパターンに依拠した互いの関係づけの探索の仕方は、サールの「構成的規則」に対応するものであるということができる。サールは規則を「統制的規則」と「構成的規則」に分類したが、規則が「統制的」であるとは、規則が当該の行為を外的に制約する働きを持つ場合を示し(例:交通ルールと道路交通上の各々の行為との関係→規則と行為は外的な関係=規則がなくても行為自体は可能)、規則が「構成的」であるとは、規則が行為それ自体を成立させる働きを持つ場合を示す(例:フットボールの規則とフットボールゲームの中の各々の行為との関係→規則と行為は構成的(内的)関係=規則がなければ行為自体が不可能=行為の意味と規則との関係は恣意的かつ必然的)と考えた。
 たとえば、チンパンジーのオス同士が出会いのコンテクストで、定型化・形式化した毛づくろいを執拗に繰り返すことは、当該の出会いにおいて「敵対的でない(親密な)コトニスル」「優劣関係をあからさまにしないコトニスル」という相互行為上の機能を果たしていると考えることができる。しかし、この毛づくろいという相互行為自体は、「敵対的なふるまいをしない」「優劣関係をあからさまにしない」といった「外的に行為の意味を指定する規則」を参照しておらず、あくまでも「形式的」なものにとどまっている。このことは、実際の出会いの場面では相互に(あるいは一方だけが)非常に緊迫した様子で毛づくろいがおこなわれることがある、という観察によって裏付けられる。しかしその一方で、こうしたやりとりが「形式的」であるからこそ、当該のやりとりに「没入」することで、あたかも他の選択肢がなかったかのようにふるまい、当該のやりとりに内的な意味づけを創り出そうと試みることを可能にしていると考えることができる。このことも同様に、緊迫した出会いのコンテクストにおいて「濃密な」毛づくろいに「必要以上に没頭」することがある、という観察事例によって支持される。
 こうした「形式化したやり方」の採用は、当該のやりとりにとって「外的な根拠」に依存したものではない(外的な根拠を参照しているようにはみえない)という意味で、「統制的規則」にしたがったものとは考えられない。こうしたやり方がその場その場で「正当化」されるのは、その都度のやりとりの内部で「形式化したやり方」を繰り返すことで、「ここでこうふるまうのはこういう意味というコトニスル」という了解を互いの間に作り上げる過程を通して、個々のふるまいの意味をあたかも規則にしたがったものであるかのように示し合わせることによってであると考えられる。このようなやり方は、外部にある規則を参照するような「統制的規則」の運用ではなく、当該の行為を内的に意味づける「構成的規則」にしたがったものであるといえるだろう。
 チンパンジーのオトナオスの「順位」と呼ばれる現象は、このような「構成的規則」にしたがった行為のやりとりの積み重ねによって描くことができる(あるいは、「定義上」そのようにしか描くことができない)。オスたちは、あるときは一緒に遊動し、あるときは互いに離れ、出会ったときにはいずれか一方がパントグラントを発し、あるいはいずれもパントグラントを発さず、毛づくろいをしたりしなかったりし、唐突に威嚇誇示をして盛り上がったり悲鳴を上げて逃げ回ったりする。個々のふるまいがどのような意味をもつのかについて、いちいち外部の(統制的)規則が参照されるのではなく、むしろ当該の相互行為がそれ自体を意味の根拠として持ち出してくるような(形式的な)実践が展開されているといえる。また、構成的規則にしたがった「順位」に関わる個々の相互行為(毛づくろい、パントグラント、威嚇誇示、闘争など)は、互いに互いの意味づけを構成しあう関係になっており、全体として構成的規則の体系(=制度)を形成していると考えられる。
 またこのとき、すでにチンパンジーの実践と研究者の観察との間の境界はあいまいなものになっている。研究者にとって、パントグラントは定義上「劣位の表明」であり、毛づくろいは「親密さの指標」である。つまり、「毛づくろいすることは仲良くすることである」ということになっており、「パントグラントすることは劣位の表明である」ということになっている。この規則は構成的であり、研究者による個々の観察に意味づけをする。つまり、チンパンジー同士の相互行為とその構成的規則との関係に、観察者である人間も巻き込まれてしまっていて、同じゲームを実践してしまっている(としか言いようがない)のである。
 このような形式化した相互行為のやり方は、進化史的基盤を遡れば、動物行動学で「儀式化」「(文脈横断的)ディスプレイ」と呼ばれる行動様式につながっていると考えられる。また、動物の「遊び」のなかにも、同様の形式化が観察できる。ヒト側に連なる系列を考えると、「儀礼」の実践や「言語」を用いたコミュニケーションの階型論などの問題群に接続することができると考えられる。

2)子どもの遊びとルール(早木仁成)
制度が「社会が人間同士の相互作用のために設けるルールであり、われわれの行動にパターンを与えることによって、人間同士の相互作用に伴う不確実性を減らす」ものであるのなら、子どもはルールをどのようにして獲得するのだろうか。ルールはどこで生まれ、どのように発展するのだろうか。
ガーヴェイ(1980)によれば、子どもたちが5~6歳ごろから熱中し始めるゲームは制度化された遊びの活動であり、はっきりとしたルールにしたがって構造化されている。ゲームにはたいてい伝統的な名前が付いており、そのルールは正確に相手に伝えることができる。はじめと終りが明確で、その中で生じる出来事に対して、限定された一連の手順にしたがって決まった順序の動きをとる。ゲームは形式的、慣習的であり、ルールがゲームの本質である。
ルールのある遊びの発達上の源は、乳児と大人との反復的で予測可能な行動パターンにまで遡ることができる。リード(2000)によれば、乳児は養育者との二項関係フレームの中で、相互行為のループを確立し、外的事象に対する予期を形成する。これらの相互行為は徐々に拡張され、乳児は大人からの働きかけに対して予期と期待をもって反応する。このような二項関係的な相互行為の中で生まれる一定の形式がルールの源のようである。ただし、このような相互行為では、大人(養育者)が乳児に対してパターンを提示することで乳児の反応を喜んでおり、大人による乳児の行動の過剰解釈、過剰応答が、乳児の学習の方向づけをしているように思われる。その後、生後9ヵ月ごろから、動的な三項的相互行為のフレームに移行し、他者と共有される遊びや活動が増加する。
 ガーヴェイは、ヒトの幼児にきわめて特徴的な「ごっこ遊び」にも、ルール性を見出している。ガーヴェイによれば、ごっこ遊びにおいてふりをすることは、けっして随意に行動することではない。そこにははっきりと、各人がどのようにふるまい、何をしなければならないか、何をしてはいけないのかについての取り決め、すなわち、あらかじめ決められた遊びの形式と、一定のルールがあるのである。ごっこ遊びは、社会関係の図式を遊びの形式として、そこに成立する往還の遊動関係を遊ぶものであり(西村清和、1989)、典型的な関係図式を形式的にふるまうことが遊びを成り立たせるルールとして見出される。
ごっこ遊びにルール性が見出せるならば、霊長類に広くみられる闘争遊び(Rough and Tumble Play)にも、ルール性を見出すことができる。闘争遊びもけっして随意に行動することはできないし、いくつかのステレオタイプなパターンがみられ、遊んでいる者たちには様々な自己抑制が生じている。
 ゲームのルールとは、何よりもゲームの遊びを成り立たせるもの、具体的な「遊び方」を規定するもの、したがって、そもそもそのゲームがどのようなゲームかを定義するものである。ルールにしたがうことは、もっぱら、ゲームの遊びが成立するために不可欠のふるまいである(西村、1989)。そういう意味で、遊びのルールは遊んでいる者たちの間に生じる実践の規則であり、遊びを構成する規則である。一方、遊びときわめて近い類縁関係にありながら明確に制度化されている活動にスポーツがある。ルールという観点からみると、スポーツのルールは遊びのようにプレイヤーだけが決めるものではなく、観衆や審判というプレイヤーの外にいる者たちがルールの判定に影響をもつ。つまり、遊びのルールが遊びというコンテクストの内部に生じるものであるのに対して、スポーツのルールはスポーツをする者たちの外部に移行していると考えられる。
 ルールや制度の生成を進化史的に考える上では、コンテクストの内部に留まるルールとコンテクストの外部に生成するルールを区別しておくことが重要であると思われる。霊長類にみられる相互行為にはルールと呼びうる形式性がしばしばみられる。たとえば、順位関係などは、劣位者の抑制というルールが構成するコンテクストであるとみなすことができるが、それはあくまで当事者間の相互行為の内部に留まったルールである。ルールの外部化のプロセスを探ることが、霊長類と人類の橋渡しをして、制度の進化を考える上での鍵の一つとなると思われる。

ガーヴェイ、C.(1980)「ごっこの構造 -子どもの遊びの世界」(高橋たまき訳)、サイエンス社 
エドワード・S・リード(2000)「アフォーダンスの心理学 -生態心理学への道」、新曜社。
西村清和(1989)「遊びの現象学」、勁草書房。