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研究会報告

2011年度第3回(通算第14回)研究会

内容の要旨:
1)「野生の平和構築 :スールーにおける紛争と平和の事例から制度を考える」(床呂郁哉)
今回は報告者のフィールドであるスールー海域世界における各種の紛争と紛争処理を通じて「制度」の問題を検討することを試みた。
まず本報告の問題意識であるが、本研究課題での制度をめぐる議論を振り返ってみれば、本研究会参加メンバーのうち、霊長類学を専門とする側では、狭義の制度が成立する以前(ないし萌芽)の状態を設定した上で、そこから制度の問題への接近を試みてきたと言えよう。これに対して ヒトを対象とする研究者の側では、一見すると議論の出発段階で、ヒトにおいて既に各種の制度(言語・親族体系、法制度、国家etc.)が厳然と成立してしまっているかのように見える。
しかしながら仔細に検討すれば、(ヒトにおいても)「制度」は絶対的なものではなく、実際にはそこには制度以前的な要素であるとか、制度の機能不全、「非公式の制度」や「制度のアノマリー」などといった状態が混じり合っているのではないか、という疑問を提示することができる。更に言えば、いわゆる「制度」自体も一枚岩的ではなく、むしろ幾つかのレベルからなる重層的性格を有するのではないかと報告者は問題提起を行った。
 ここで議論の便宜上、狭義の制度(いわば大文字の制度)という水準を考え、これを「制度Ⅰ」と名付ける。この制度Ⅰは フォーマルな制度を意味し、典型的には近代国家や、その設定する裁判所・司法・警察・成文法による紛争処理制度などの、言わばハードな制度を含む。これは国家などの公的な組織による暴力の独占状況を前提とすると考えることができる。そして形式化され境界が固定された、社会のメタ審級としての組織(国家、警察、法廷等)に依存し、形式化されたサンクションを(少なくとも建前上は)伴うものとして想定できる。
これに対してより広義の制度を「制度Ⅱ」と名付けることを提唱する。具体的には、成文法と対比しての慣習等によるインフォーマルな紛争処理プロセス等を典型的な制度Ⅱの実例として考えうる。この制度Ⅱは、制度の客体化・物象化・明文化の度合いが制度Ⅰに比べると総体的に少ない、言わばソフトな制度と言うことができる。とくに国家による暴力の独占が機能していない状況下のものが典型的である。この制度Ⅱは(制度Ⅰとは対照的に)形式化され境界が固定されたメタ審級としての組織だとか形式化されたサンクションを必ずしも伴わない。
さて民族誌的な水準で言えば、フィリピン南部スールー海域世界は、名目上はモダニティの諸制度(本稿の言う「制度Ⅰ」:近代国家、成文法の体系etc.)が存在し、社会を規制・拘束するということとされる。しかし実際の民族誌的データの検討からは、その機能不全や例外状況が多発しており、すなわち制度Ⅰの失敗とインフォーマルな広義の制度・慣習(本稿の言う制度Ⅱ)の相対的優越を指摘することができる。
 報告では以上の状況下で、それではいかにして現地において紛争などが処理されているのかを民族誌的資料をもとに考察し、とくに儀礼による紛争処理の過程に注目して検討を行った。たとえばサマ人のキパラットと呼ばれる和解儀礼などが、現実の物理的な暴力を象徴的で操作可能な暴力へと変換した上で、それを処理する社会的な仕掛けとして一定の有効性を有することを筆者は報告した。
ただし他方でこうした和解儀礼など象徴的な回路による平和の達成は、決して万能でも予定調和的でもないことにも注意が喚起され、たとえばこうした儀礼の存在にも関わらず、現地でしばしば紛争が解決を見ないまま長期化したり、和解(儀礼)の失敗例なども存在することも同時に報告された。またそもそも和解儀礼を通じた紛争処理が有効なのは、スールー海域世界においても、概して民族集団内での集団<内>の紛争に対してであり、民族集団<間>の紛争・暴力には無力である事実も指摘された。こうして近代国民国家の有する制度Ⅰの機能不全という状況下で、インフォーマルな紛争処理とくに儀礼など象徴的回路を通じた処理など制度Ⅱの一定の有効性と、同時のその限界という側面が、民族誌的事実に即して具体的に報告され検討された。


2)「制度の基本構成要素--三角形、そして四面体をモデルとする『制度』の理解」(船曳建夫)
 本発表の目的は、「現在われわれが生きている人間集団が、いかにして、生物学的な集団構成を質、量共に超え、次元を異にするというべき規模と複雑さを持つに至」ることが出来るかを、考察することである。
 人間の1対1の関係は、原理的には限りなく作ることが出来る。しかし、それは「記憶」の限界によって、時間的に劣化して行くのだ。その時、自分(第1の存在)と相手(第2の存在)とに、第3の存在が介在したらどうなるだろうか。第1者(A)と第2者(B)との関係を媒介する第3の存在(p)は、第1者が、その持っている関係(R1)とは別の関係(R2)を持ったときに、R1を劣化させずにR2を持たせる可能性を開く。すなわち、第3の存在が、共時的にAの身体的な限界を肩代わりし、通時的にはAの「記憶」の耐性を保証する。
 さて、次に、Aにとって3者、4者、5者、6者間関係、と、関係が広がっていく状況を考えてみよう。しかし、かつて、Aは、その能力の限界まで関係を持つとしても、それは、「経験的には、かなり少ない数の人間、例えば、5、6人とか10数人」といった数となろう。ここで問題は、「場面上の人間と水平に重なって隠れている向こう側の人間(q)と対面し、関係を取るには『回り込んで』、向こう側に自分の位置を変えなければならない」ことである。しかし、Aが「回り込んで」qと関係を持てば、Aにとって、Bが「場面上の人間と水平に重なって隠れている向こう側の人間」となってしまう。すなわち、放射状に居並ぶ人間と、二者関係を数限りなく取ること以外、関係は量を増さない。
 ここで、われわれは、三角形が四面体となることで、物理世界に構造が立ち上がることを論じた、デザイナーにして思想家であるバックミンスター・フラーの考えを援用しようとする。すでに論じたように、第3の存在pが現れ、それがA、Bに対して、二者の関係を保証しながら三者関係を取り結ぶとした。その時、pが図3にあるように、第3者(C)とならずにA、B、二者の関係を保証するだけの存在(p)であり続けたらどうだろう。しかし、pが「父」であれ「金」であれ、それが人間やモノである限りは、それは図3となって、限界を抱えながらの、広がりを持つだけの人間の集団となる。
 ところが、pが人間であってもモノであっても、それが、「父」という記号であり、「金」という記号であれば、「一義性の不十分」と「記憶の劣化」を超えることが出来る。A、Bに対してp、第3項として現れた存在が、「記号化」した人間やモノであれば、A、B、Cの三者関係がはらむ、問題から免れるのである。そのとき、AとB、AとC、BとC、の三つの二者間関係はαに保証された4面体として表れる。それは、Dが加わったとき、3者関係よりさらに統御不能な4者関係ではなく、DとAの、DとBの、DとCの、そして、AとC、AとB、BとCの、αを第3項とした6つの二者間関係からなると考えることが出来る。その意味で統御不能性が最小限の、4つの4面体が複数重なり合った統合体として現れる。この構造による制度は、なぜ全体の広がりに同時にまた、継続的に関わることが出来るのか。その理由は、すべての人間が、他者との関係を二者関係として捉え、それを保証するpが決して、関係の統御不能性を増す、第3者として現れることがないからである。言い換えれば、なぜαはそれを保証するのか、というと、それはpが記号化してαとなるだけでなく、そのαという記号が、意味の体系の中で、αであることを幾重にも解釈され続け、その結果。「象徴作用」を持つものとしてのαであるからだ。たとえば、「父」がたやすく記号から実体に立ち戻り、三者関係以上の関係の当事者になって統御不能性を増したりしないように、子たちが「父を殺す」とする。そのばあい、死者としての父が「記号」となることで安定はしても痩せてしまい、保証機能を減じていくことに対しては、記号としての父を常に強化する解釈を増加的に保証するような意味空間が求められる。それが制度なのである。