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研究会報告

2009年度第4回研究会

日時:2009年10月10日(土)13時〜18時30分
場所:AA研小会議室(302)
内容:
(1)制度の進化史的基盤について考える(曽我亨・AA研共同研究員/弘前大学)
(2)行為選択を正当化する「分離された表象」の出現と制度化(北村光二・AA研共同研究員/岡山大学)

内容の要旨/配付資料:
(1)制度の進化史的基盤について考える(曽我亨)
1.はじめに
(1)「制度」のとらえ方
A. 制度は、規範的な拘束力を持つほか、制裁が加えられることもある。
1.
(制度とは)学習すべきことの規範的な妥当性が,社会的に認定されているものとして認知されるような行動様式。制度は,規範的な拘束力をもって諸個人に働きかけ,しばしばこれに合致しない行動を取る個人には,制裁が加えられる。諸個人の思念から独立した,社会的な実在として現れるところに,制度の重要な特徴がある(ブリタニカ国際大百科事典)。
2.
社会的な役割の体系にかかわるものが制度であり、挨拶の仕方、食事のマナーなどの慣習は制度とは言わない。本来社会における人々の相互行為を律する規範の一種だが、フォーマルな社会組織として実体化したものを制度と呼び、制度化を問題にすることもある。制度は社会の多数によって受け入れられている規範の担い手として社会成員に対して制裁などの強制力を及ぼす(文化人類学事典)。

◇マックス・ウェーバーは習俗、慣習、習律、法を考えた1が、この制度の定義では、習俗と慣習は制度ではないことに、習律と法のみが制度ということになる。

B. 制度は、社会諸規範が複合化し体系化したものである。
1. 人々が混乱なく社会生活が営めるのは,慣習,慣例,法といった社会規範に従って行為しているからである。このような社会諸規範が複合化し体系化したものを〈制度〉という(平凡社世界百科事典)。
2. 社会的に標準化された行動の規範の複合体で、家族制度、教育制度、宗教制度、政治制度など社会生活の様々な側面にわたって見られる。

◇この場合の制度には、マックス・ウェーバーの習俗、慣習、習律、法はすべて含まれる。

C. 制度は、人間の本能的構造(未分化で無方向)に関連している。

マックス=ウェーバー『経済と社会』
習俗(Sitte[custom])と慣習(Brauch[usage])は、事実上の力によって人を秩序に向かわせるものとされる。慣習よりも習俗のほうが変化に乏しい。たとえば、男性はスカートをはかないというのは習俗。女性はスカートをはくけど、流行はずれのものははかないというのは慣習。一方、習律(Konvention[convention])と法(Recht[law])は、そうすべきだからという理で人秩序に向かわせる。両者の違いは一般性の高さによって区別され、習律に違反した場合の制裁は、比較的狭い範囲で実効性を持つのに対し、法はより一般的・普遍性が高く、制裁はとくにもうけられた機構によって遂行される点が異なる。

1. バーガー&ルックマン『日常世界の構成』(pp.92-94)
「習慣化は選択範囲を狭めるという重要な心理学的結果をもたらす。. . . 習慣化は人間の生物学的構造に欠如している活動の方向づけと特定化を可能にし、そのことによって、方向付けを欠いた諸々の衝動から生じる緊張の蓄積を解消する。. . . 制度化は習慣化された行為が行為者のタイプによって相互に類型化されるとき、常に発生する。. . . 類型化されたものこそが制度に他ならない. . .類型性とは行為の類型性だけでなく、制度のなかにおける行為者の類型性をも含む。」

○ 言語を制度の前提におくのではなく、対面的相互作用による習慣化を制度の前提におくのは良い。
× 思考実験の例が貧弱すぎてついて行けない。たとえば制度化を論じるのに、相互に何の連絡もないまま歴史的に形成されてきた二つの社会的世界からその出会いの場(無人島)にやってきた二人の相互行為から類型化がどのように成立するかを論じたり、そこに子供を登場させたりして正当化の議論をしている。しかし、個人間の習慣化が、いかにして大きな集団の制度となるのか、バーガー&ルックマンは知らんぷりである。

◆制度を狭義・広義にとるかはともかく、まずは制度の集団性についての話をしたい。
◆制度については動的に生成し続けている(習慣化でなくとも)という側面に目を向けたい。

(2)意図的・動的な「法」の生成
日常を秩序づけている法・規範から、実定的な法律が生まれる。

A. エールリッヒ『法社会学の基礎理論』
1. 法規範:無形の法。社会の秩序づけるもの。規範的な拘束力をもつ。
2. 裁判規範:紛争の解決基準としてそのつど明らかにされ消えていく。
3. 法規:実定法。国家強制秩序としての法概念。

法規範・裁判規範・法規の関係
(1) 法規範が集団の内部を秩序づけていても、秩序の革新につながる紛争が生起することは避けられない。新しい事態は新たな安定を求めるエネルギーとなりうる。
(2) 裁判は、調停のためにまず従来の秩序の確認をする。ここで平和時の遂行的ルールである法規範が、裁判機構によって確認される過程で自覚的なものとなる。新しい事態に対応するため、裁判所は将来に向かって新たな法を宣言する(裁判規範)。
(3) 裁判規範の積み重ねは一般性を獲得していく。やがてそれは法規として定められることになる。

B. ハート『法の概念』
1. 責務の第一次的ルール(primary rules of obligation):
法以前の形態の社会(公機関が存在しない)では、これだけでもやっていける(このルールに慣習は含まない)。暴力の勝手な行使、盗み、欺瞞を制限する。しかし、三つ欠陥がある。
1) 不確定性:ルールを確認するための典拠や権威ある公機関がない。
2) 静的性質:意図的に古いルールを排除したり、新しいルールを導入したりする手段がない(意図なしに変化することはある)。
3) 非効率性:ルールを維持する社会的圧力が散漫であるため、ルール違反が起きてもそれを権威的に確定できない。

2. 第二次的ルール(secondary rules):
責務の第一次的ルールを矯正するためのルール。欠陥に対する矯正を導入すること自体が、法以前の世界から法的世界への歩みと考えられる。
1) 承認のルール:責務の第一次的ルールの不確定性を矯正するルール。その第一次的ルールが、ルールとして承認できることを、最終的に確認するためのルール。たとえば文書や碑文として記録し、それを権威あるものとして参照することを認める。
2) 変更のルール:古いルールを排除し、新しい第一次的ルールを導入する権能を個人または団体に与えることで静的性質を矯正する。
3) 裁判のルール:第一次的ルールが破られたかどうかを権威的に決定する権能を個人に与えることで非効率性を矯正する。

責務の第一次的ルールと第二次的ルールの結合にこそ、法の本質がある。つまり、第二次的ルールが、本来は不可視・無自覚のままである第一次的ルールに言及することで法になる。

◆エールリッヒもハートも、それまで無自覚であった日常的規範(責務の第一次的ルール)が、紛争などのきっかけで(裁判所などに)言及され、自覚化されるようになることで法(法律)が生成されると考えている。このように日常的規範が問い返されていく場面をみることで、ヒトにそなわっている制度生成能力を考えたい。
◆ただし牧畜社会(そしておそらく他の生業を営むアフリカの自然社会)における日常的規範の問い返しは、法社会学者たちが考えるような法生成のプロセスとはまったく別のものになりそうである。


2.ヒトの制度生成能力の進化史的基盤
(1)言語を制度の進化史的基盤とする場合(内堀さん)
1. ヒトの社会や集団には、それぞれ認知・表象・行動による秩序がある。
2. なかでもヒトの社会を生むのに重要なのは、(その場を離れ、時を超えた、ことに関する)表象能力である。
3. その表象能力の基盤として、言語の誕生を考える

◆言語以前のヒト属(ホモ属)あるいはアウストラロピテクス属の社会が、制度を生成させていく言語以外の能力を持ち得ていたかどうかは不問(内堀さんは否定していない)。
◆社会的コミュニケーション理論の立場からは、コミュニケーションが単一のチャンネル(言語を介する聴覚チャンネル)だけで起きているわけではないと再三主張(菅原和孝・野村雅一『コミュニケーションとしての身体』)。

(2)言語によらない黒田さんの自然制度(『人類進化再考』)
自然制度=社会集団の成員が自己および他の成員が従うことを期待する事柄。
これは規則と規範の単純な定義でもあり、自己および他者に対する意識が鍵である。意識は交渉している当事者間だけでなく第三者にも向けられる。「期待すること」というのは、逸脱があり得ることを意味している。行動規制の源は文化でも生得的な行動型でも良く、この規則の逸脱を目撃した者が否定的な反応を起こすような形で意識されるものであればよいのである。(p.147)

○パン属にみられる「逸脱への否定的な反応」
同盟者の間柄では、相手の危機に駆けつけると同時に、相手も自分に対してそうするという期待があること、そして、裏切りにはしっぺ返し(復讐または懲罰とおきかえてもよいが)がありうる(p.226)

・アウストラロピテクス属≒現生類人猿(パン属では食物分配):食物分配、道具使用
・ホモ属以降:脳容積の拡大、生理的早産、分業をふくむ日常的食物分配が成立、家族、互酬性、言語
○パン属の食物分配を詳細に検討すると、
1. 欲求の断念、自制(逸脱あり)
2. 自己の客観視、自由意志
3. 価値・所有の出現、分割(無所有状態の食物を引っ張りあって裂き、わけること:コムニタス的分配のひとつ)
などが、成立していたことが明らかになってきた。

4. ホモ属では、これらに加え、自己と他者を交換可能なように認知する能力(共感)が新たな基盤として加わり、互酬性と制度の原初が始まったとが可能になったと考える。依存心と主観の共有

◆自然社会における日常的規範の問い返しを考察する際、この共感が鍵になりそうな予感がする

3.日常的規範が言及されるとき
(1)日常的規範を自覚化しているのか良く分からない会議
 1997年、ケニアでは国会議員を選出する総選挙がおこなわれた。北ケニアの端にくらすガブラの人々も、複数政党下はじめての総選挙に巻きこまれていったが、選挙はガブラ社会に深い爪痕を残した。異なる候補者を支援した人びとのあいだでは、婚約を解消しあい、葬儀への参加もやめ、ラクダを貸与する約束も破棄しあった。ガブラ社会は、無惨にもまっぷたつに引き裂かれてしまったのである。
 こうした状況に、心を痛めていたのがアルガナ・フラトリーのマンモ氏であった。ガブラにはアルガナ、シャルバナ、ガル、ガルボ、オドラの5つのフラトリーがあり、フラトリーごとにヤー(ya'a)とよばれる政治的・宗教的中枢の集落がある。マンモ氏は、ヤー集落のハユ(最高位の伝統的役職者)であった。彼は総選挙のあと、五つのフラトリーすべての人びとをあつめた和解のための大会議をひらくと宣言した。ガブラ史上、はじめての大会議である。
 大会議には、各フラトリーのヤー集落を代表するハユをはじめ、おおくの伝統的役職者が参加した。さらに町や牧野から約350名のガブラが参加して活発な議論がかわわされた。1日あたりの平均出席者数は約180名である。会議場は平原にそびえる大木の木陰である。ちいさな木陰には炊事場がつくられた。宿泊のためにNGO団体から借りた巨大なテントも設営された。大会議は八日間もつづいた。
 さて、この大会議は「うつくしい」と表現された。参加者たちは、くちぐちに「うつくしい」と褒めそやした。毎朝、ハユのマンモ氏は伝統的所作にしたがって家畜を供儀した。供儀された家畜の革からはブレスレットがつくられ、人びとはこぞってこれを求めた。大会議の会場となった木陰で私語する者はおらず、人びとは朗々と意見をのべあった。この大会議には伝統的な雰囲気が満ちあふれており、またガブラが愛する「ナガヤ(平安)」が実現されていたのである。
 けれどもわたしは、しだいに会議に集中できなくなってきた。大会議が始まって5日目。いったいいつまで話しあうつもりなのか。せいぜい2日程度でおわるものと思っていたのに、いまだ会議は終わる気配がない。着替えの準備をしてこなかったのでTシャツは悪臭を放ちはじめる。トイレットペーパーの残りもすくなくなってきた。砂地のうえで腰を伸ばしながら、わたしはいつ終わるともしれぬ演説にイライラしていたのである。
 わたしがイライラしたのには理由がある。とにかく会議が非効率的なのだ。ながい演説が終わると、べつの人が立ちあがり猛然と発言しはじめる。どうやら大反対しているようだ。わたしは姿勢をただし、注意ぶかく耳を傾ける。ところが発言をきいてみると、先の人とおなじ意見を力説しているだけなのである。これが2人、3人、4人と続くと、うんざりする。どうして多数決で決めないんだろう。わたしは会議に一緒にやってきたエレマ君に合図を送ると、そっと木陰を抜けだした。
 エレマ君は会議にすっかり感銘をうけたようである。彼も会議を「美しい」と褒めたたえている。けれども、わたしが「どうして皆、おなじ意見ばかりいうのか。多数決で決めたら早いのに」と尋ねると、彼は困ったような顔をした。どうやらわたしの意見は「美しく」なかったらしい。「俺たちはこういうやりかたが好きなんだ」と言われてしまった。
 ガブラは他人に自分の意見をゆだねてしまうことを好まない。たとえそれがおなじ意見であったとしても、自分のみかたをまじえながら意見を表明しあっていく。旱魃や病気や敵の襲撃で一夜にして家畜を失ってしまいかねない牧畜民の生活は、自分のことは自分で判断するという自主自立の気風をはぐくんだ。おなじ意見であっても互いに表明しあうというやりかたは、こうした自主自立の気風のあらわれと考えるべきなのかも知れない。

■会話における共感(主観の共有)について、黒田は次のように言っている。「言及対象がなければ会話はできないが、後で内容を思いだそうとしても「おもしろかった」ということ以上に思いだせない会話がよくあるように、いったん会話が成立してしまえば、言及対象はしばしば二次的な要素に格下げされる。これはどういうことを意味しているのだろうか。私たちは、会話ではある対象について話し合っているようにみえて、実のところはそれに対する主観の交換をしているとは言えないだろうか。(p.268)
■また、北村(1983)は『季刊人類学』に掲載された「対面的相互作用におけるコミュニケーション」という論文において、「できごとの共有」という現象に焦点をあてているが、その論考のなかで、「共有関係に入る」という過程について、「きわめて当然のごとく事態が進行して、できごとの成立についてほとんど何も意識することがないか、あるいは、人ごみの中で友人に出会ってほほえみ合ったときの何となくうれしい気分や、ダンスで男役と女役の動きがうまくかみ合って感じる心地よさ、また、あとでその内容が記憶にも残らないようないわゆる無駄なおしゃべりにおぼえる満足感、などといったささやかな感情とともにできごとの共有を意識するような場合を考えることができる。(p.12)」と述べている。

◆冗長で、おなじ意見のくり返しがおおいガブラの会議を見ていると、たしかにそこでは「ある日常的規範が自覚化」されていることは間違いないのだが、奇妙な気持ちになってくる。彼らは新しい意見や情報を追加しながら、より精緻な法(制度)をつくりだそうとしているというよりは、法(制度)そのものよりは、むしろ共にいることを(共有?)楽しんでいるかのように思えるのである。たまに発言者が、脱線してしまうことがあるが、そんなときには「そっちじゃないぞ」とかけ声がかかり、まるで発言者がこれから発言しようとしていることを先取りして知っていて、過ちを指摘しているかのようである。まるで、くり返し過去の出来事を語り、間髪入れず同時発話するブッシュマンのようだ。彼らは、同じ内容の発言を繰り返すことで、幾度も心地よい共有関係を楽しんでいるかのようである。
◆近代法が支配するわれわれの社会では、法と聞くと冷たさを連想したり、裁判と聞くと冷酷さを連想したりすることがある。エールリッヒやハートによると、法とは、我々が無自覚的にもっている規範を外在化させたものであるが、法が集団から取り出され、外在化するとき、それはもはや紛争の当事者を勝敗をつけるために用いられるものになってしまっていて、心地よい共有関係はもはや追求の対象ではなくなってしまっているのだろう。だから冷たさを感じるのだ。法(制度)の外在化のプロセスは、あくまで近代的思考の枠組みのなかでのみ正統化されるものである。
◆近年、牧畜民の異民族どうしの紛争の調停に、地方政府が大きな役割を果たすようになってきている。調停はまず軍隊によって紛争を押さえ込み、治安が回復されたら、政府主催の会議が開かれるという手順で進む。このやり方は紛争を押さえ込む上で、非常に効率的である。政府主催の会議は、おおむね政府役人が司会をつかさどり、各民族の言い分を聞いたのち、新たな資源の配分をしたり、民族に問題を帰着するよりは、個々の殺人者をとらえて裁くことで一件落着とする傾向がある。
 しかしガブラはこのやり方に満足していない。「伝統的」な会議では、紛争につかれた当事者どうしが平和を希求して集まり、伝統的な会議のように、共にいることを確認し合っていたように思える(ヌエルの豹皮首長による調停も同じであろう)。これは、両者が平和を望み、共存関係に入ろうとする構えができていなければ、会議を開くこともできず、非効率である。もし構えができていないときに会議を開くことは、平和が実現するどころか、あらたな戦端をひらくきっかけにもなりかねない(過去には、しばしば会議に銃弾が撃ち込まれ、大規模な戦争になることがあった)。

(2)ガブラが課した一番厳しい制裁
 さて、当時、ガブラのアルガナ・フラトリーには、選挙以外にもうひとつ大きな社会問題があった。それは、ガドーム世代階梯のハユであるマンモと、ダベラ世代階梯のハユであるイサコの対立である。ガブラのハユの任期は15年である。ところがイサコは、自分の任期は既に終わっていたにもかかわらず、12年にものあいだ後任のハユであるマンモにたいして、その地位を明け渡す儀礼をおこなわなかったのである。
 マンモがすべてのガブラに呼び掛けて大会議を開催すると、イサコはこの会議をみとめず、みずからもアルガナ・フラトリーの会議の主催をした。この会議にはイサコの支援者を中心に30名ほどが集まっただけであった。彼らは同時に、アルガナ・フラトリー出身の国会議員候補者(落選)の熱心な支持者であり、ガブラ社会を切り裂くことに積極的に加担した人々でもあった。
 さて、マンモが開催した大会議では、選挙のあいだに起きた人びとの対立を調べあげ、すべて間違っていたと断じた。そして、平安が回復されたという声明を出した。けれども、大会議は声明をだしただけで、個々の人びとの責任を追及したり、非難したりはしなかった。具体的に娘を結婚させるようにとか、約束したラクダを渡すようにとかいった勧告もなかった。それどころか「紛争を煽動したり、過ちを犯したりした個々の人びとには責任はない」ことになってしまったのである。
 紛争の当事者に代わって責任が追及されたのは、ダベラ世代階梯のハユ、イサコであった。ふつうガブラが紛争を解決するときは、紛争当事者の双方の意見を聴きながら、どちらが誤っているかを議論し、双方が納得できる決着を目指して調停がおこなわれる。けれども今回は、紛争の当事者の一方の者たちが、イサコが主催したアルガナの会議に出席したため、彼らの意見を聞くことができなかった。そこで大会議は、彼ら欠席した責任はアルガナの会議を開催したイサコにあると断定したのである。なぜならば「ハユは人々の父親」なのであり、子ども(人々)は親(ハユ)にしたがうものだからだ。また子どもが過ちを犯した場合、その責任が親にあるように、紛争当事者たちが犯した過ちの責任も、すべてイサコにあると決めつけた。そして、結婚を拒否しラクダの授受を拒否し葬式を拒否し儀礼の参加者を拒否したのはイサコなのであり、イサコをガブラから切断(kuta)すると宣言したのである。
 当初、わたしには切断するということが何を意味するのか、よく飲み込めなかった。一緒に会議に参加したエレマ君に訪ねると、「つまり、彼はひとりになってしまったんだ」と教えてくれた。わたしは大会議の決定をイサコに知らせる使者とともに、イサコが開催しているアルガナの会議に乗り込んだ。会議の決定を知らせると、イサコは「わたしはひとり(kofa)なのか?」と周囲の人びとに問うた。人びとは「わたしたちと共にいる」と答えた。

■日常的な背景
 ガブラは「ひとり(kofa)」でいることを嫌う。フィールドでわたしは、しばしばぼんやりしたり、考え事をすることがあるが、そんなときガブラの人びとは必ず、「考えてはいけない」とわたしに注意した。一応、考えるのが商売なのに、なぜ考えてはいけないのか。不思議に思って尋ねると「ひとり(kofa)になるのはよくないからだ」と返事が返ってきた。
 逆に、誰かと共にいるのは良いことである。どこかへ行くときにも、ガブラはできるだけ複数で連れだって行こうとする。そうすれば道中でトラブルに遭遇しても、力を合わせればなんとか切り抜けられるだろう。町に住んでいるガブラは、別れるときの挨拶に「平安に(nagayaat)」と言うかわりに、「共にいるよ(wolin jira a’ye)」と言うことがよくある。別れても同じ町にいるなら、共にいるのだ。

■「共にいない」者への制裁
 逆に共にいないことは、それ自体が重大な規範への違反とみなされることもある。とくにそれが顕著なのは、葬式、病人への訪問、結婚などである。
 誰か死亡すると、家長はたとえ真夜中でも近隣の村々をまわり、家族の死を告げる。すぐに深い穴が掘られ、遺体を白い布で覆うと埋葬する。このときまでに参加していないと、誰が参加していないかがチェックされ、厳しく咎められる。通行人も、途中で葬式をみかけたら、かならず立ち寄るようにしている。
 また誰かが病気で伏せているというニュースを聞いた者は、近隣の者であれば訪問して声をかける(「神が貴方を快癒させますように」)ことが期待されている。訪問しないと、快癒した病人から「なぜ見舞いに来なかったのか」と咎められることになる。
 ガブラの結婚式は、夜を徹しておこなわれ、明け方まで新郎の周りを取り囲んで歌うが、調査助手のマタ君はこれを「新郎を助ける」と表現していた。歌って過ごすのは楽しいことではあるが、参加は義務でもある。当然、立ち去るときには、丁寧に許可を取らなければならない。

◆「共にいない」ことが、責められるのは、それ自体が「主観の共有」や「できごとの共有」を拒否する行為だからであろう。「イサコをガブラから切る」とは、一切の主観の共有を拒否するということであり、事実、「イサコの家畜を盗もうが、捕まえて殺そうが勝手だ」との発言も聞かれた。これは黒田のいう「自己と他者を交換可能なように認知する能力」を逆に使って、わざわざ認知を遮断しているのだと言えよう。
◆ガブラの人びとは「共にいること」をあたりまえにしているので、逸脱することはまったくと言ってよい(私は、しばしば逸脱していたが)。むしろ共にいることは、彼らにとって安心できる状態なのだと感じる。共にいるということは、次に挙げるように依存する相手がいるということである。依存には、さまざまなレベルが存在する。

(3)依存と信頼
 ガブラ社会では、困難は他人に解決してもらうことが当然視されている。ガブラも他の牧畜民と同様に「ねだり」が頻繁におこなわれるが、これはいわば「他助努力」である。ガブラ社会では自助努力が否定されているかのごとくであった。「自助努力をしない」という態度がもっとも明瞭にあらわれている事例をつぎに挙げてみよう。

【事例】
ガブラにはヤー(ya'a)と呼ばれる政治的・宗教的に中心的な役割を果たす集落がある。かつてシャフィとイブラエの二人は、ヤー集落から近くの村からヤギを集めてくるようにと指示された。彼らは人びとから合計20頭のヤギを集めたが、これをヤー集落につれていかなかった。二人は10頭ずつこれを着服し、すべてのヤギを「食べて」しまったのである。ヤー集落からは何度もヤギをつれているようにとの伝言がとどけられたが、彼らはこれを無視しつづけた。 1998年2月、ヤー集落は再度このことを問題にした。すでにイブラエは死亡し、シャフィも老人になってしまっていた。そこでヤー集落はシャフィの長男であるアダノに義務を履行せよとせまった。アダノはそんなにおおくのヤギを支払うことはできないと訴えた。ヤー集落はこれに応じ、結局、3頭のヤギをつれてくれば良いということになった。アダノはこの3頭のうちの2頭のヤギを、近隣に住む人たちから得ることにした。

 この話を聞いたとき、わたしは、アダノ自身が飼育している家畜のなかから3頭のヤギを調達しようとしないことに驚いた。日本人の感覚からすると、この問題は自業自得である。ましてアダノの家族は、当時、200頭以上のヤギを飼育していたから、3頭のヤギをそのなかから弁償することなど、なんの問題もないことのようにわたしには思えた。
 しかしガブラはそのようには考えない。わたしの周囲の人びとは、アダノが2頭のヤギを他人から援助してもらおうとしていることを、当然のことと受けとめていた。援助を求められた男性も、自業自得だなどとアダノや彼の父親を非難したりすることもなかった。ガブラにとって、その状況がその人自身によって引きおこされたことであるかどうかということは問題にならないのである。またアダノのように、自分ひとりで問題を解決することが可能であったとしても、自分の力だけで切りぬけようとはしない。自助努力によって困難を克服することが可能な状況であっても、他人に援助を求めることはガブラにとって自明のことなのである。
 さて、ガブラが自助努力をしないのは、ガブラがケチであるからではない。ガブラは、遠来から訪問してくる客にたいしてヤギを屠殺してもてなしたり、友人が病に臥せっているときには養生するようにとすすんでヒツジを贈りとどけたりする。彼らはむしろ「気前のよい」人たちなのである。ガブラが、最初から自助努力を放棄している背景には、人間についての独特な見方があるからである。
 他人の助けを重視する姿勢は、経済的な問題だけにかぎらない。ある時、私の調査助手のマタ君は友人のボナイヤ君に「命令」されたことが不満で、怒りをあらわにしたことがある。東アフリカの牧畜社会は、独立症候群(independent syndrome)とアメリカ人人類学者に言わせしめたほど自主自立の気風が強い。このような社会にあって*、他人に「命令」されるのは、まして同世代の友人に「命令」されるのはガマンならないことのようである。マタ君はさっそく村の長老にボナイヤ君のことを訴えた。
 わたしは「どうして本人同士で話しあわないのか」とマタ君に尋ねてみた。「命令」といっても、それは「家畜の給水のために井戸に手伝いに来い」という程度の、ささいな「命令」だったからだ。本人どうしが話しあえば、すぐに解決できる程度のことだとわたしは感じたのである。けれどもマタ君は「人間というものは、当事者だけでは問題を解決できないものだ」と答えた。たしかにガブラ社会で争いがおきると、当事者たちはいつまでも争いをつづけようとせず、すぐに適切な長老に告訴してしまう。こうした背景には、マタ君が答えたような人間観──他人の助けなくして、当事者には問題は解決できない──があるように感じられた。長老は問題のおおきさに応じて、地域の人びとをあつめて会議をひらく。問題がちいさければ、集落の人びとが中心になって話しあうし、おおきな問題であれば、地域のおもだった長老たちが集まることになる。争いの当事者たちは、人びとの前でみずからの正当性を主張する。人びとはどちらの主張がよりガブラの慣習(aada)に沿ったものであるか話しあって裁定をくだす。このように当事者どうしのあいだに問題が生じたとき、ガブラは積極的にこれを他人に委ね、他人の助けをかりて解決しようと試みるのである。いわばガブラは、他者に全面的に依存する「他助努力」によって主体性を回復しようとしているといえるだろう。


* 最近まで、私は牧畜民の独立心の強さが理由かと考えていたが、おそらくそうではなく、命令も、相手との「主観の共有」を無視した行為であるからではないかと考える。


■クラストルは『国会に抗する社会』において、「(未開社会の)社会生活とは、どのようなものであれ勝利なるものは一切排除した『戦い』なのであり、逆に『勝利』について語りうる者がいるとすれば、それはあらゆる戦いの外、つまり社会生活の外にいる(p.150)」のだと述べている。

◆もちろんガブラがひらく会議も、一方を勝者に、他方を敗者に決めつけようとする者ではない。クラストルが述べるように、ガブラの会議の第一の目的は、社会生活の安寧を回復することであり、当事者の双方に行き届いた配慮が成されるのが普通である。それは20頭の賠償を命じられたアダノの事例においても3頭にまで減額されたことに現れている。
◆ガブラの冗長な会議が目指しているのは、法(制度)を精査し、取り出し、外在化することではない。それは紛争の当事者の「勝敗」を排除する「戦い」なのである。
◆結論として、ヒトにとっての制度とは、相手と「できごとを共有」したり、「主観の共有」を回復したりすることではないだろうか。制度の個々の内容自体は、さほど重要ではない。たとえ内容が途中で変化しようとも(そういうことはよくある)、主観の共有が回復されることのほうが大切なのであり、それは異民族とのあいだとでもまったく同じなのだろうと考えたい。


(2)行為選択を正当化する「分離された表象」の出現と制度化(北村光二)

1.(個人の立場でする)外部環境との関係づけにおける「再現可能な関係的秩序」の構成
・適切な関係づけを体験することと適切な関係づけを選択・遂行することが相互に他に依存するという循環的回路に置かれるとともに、自然選択のもとで、適切な関係づけの対象を体験・識別することと対象との適切な関係づけの行為を選択・遂行することのそれぞれが、それ自体として決定可能なものであるかのように扱えるようになる
①ある時点における環境との関係づけを当事者が生き続けるうえで適切なものにすることが可能になったとしてもそれを再現可能なものにするためには、そのときの関係づけを「関係的秩序を構成するもの/しないもの」という区別に対応するものとして体験できるようになることが不可欠だと考えられるが、その一方で、環境のある特定の要素をそれとの関係づけが秩序構成的なものになる対象として識別することが可能になったとしてもそれが環境との適切な関係づけに結びつくためには、そのときの関係づけの行為を生き続けるうえで適切なものなるように選択・調整できるようになることが不可欠だと考えられる
・適切な関係づけを体験することと適切な関係づけを選択・遂行することが相互に他に依存するという循環的回路を前提に、生命体とその環境との自己言及的な関係づけの活動が再現可能なものになるとき、それはすなわち、その生命体が環境に適応して生き続けられるようになるということである
②そのような自己言及的活動に対して、それをより安定的に再現可能なものにすることに向けた自然選択が働くことで、対象とのなんらかの関係づけの行為を選択・遂行することとは切り離された状況で、対象をある特定の属性を担ったものとして体験・識別できるようになるという意味で、その種の個体の誰もがその識別をもたらすある特定の「(分離された)心的表象」を心に抱くことができるようになっているとも考えられる
・ただし、この「表象」はそれを外的に表示するメディアをもっておらず、ある種捏造されたものにすぎないと考えられるべきである(アフォーダンス理論ではエコロジカルな情報のピックアップによって、「行為とは切り離された識別」が可能になると考える)
・同時に、対象をある特定のものとして識別する(ある「表象」を心に抱く)こととは独立に、ここで問題となっているような種類の適切な関係づけの行為が、その種の個体の誰にとっても、いつでも選択できるものになっている(たとえば、それが遺伝的な基盤をもつものになっている)と考えられる

2.同種個体との関係づけにおける「再現可能な関係的秩序」の構成
①関係づけの枠組みの選択が相互に一致しないことへの対処
a. ある特定の非敵対的な相互行為を、一緒にそうしようとする可能性の高い相手を選んでそうする
b. 「一緒に何かをする」という相互の行為接続におけるメタ・レベルのことがらについて一致を見出しておくことで、「仮のもの」として関係づけにおける枠組みの一致の可能性がより高くなる(遊び)
②相互の関係づけにおけるそれぞれが指向するゴールが両立しないことへの対処
a. どちらか一方が自らが指向するゴールを取り下げるという解決に向けて、すべての2個体間に優劣関係が決まっているかのようにふるまう
b. 第3者を巻き込んだ状況において、マウンティングによって当事者間の優劣関係を確認することによって、敵対的行為接続を回避する
③敵対的行為接続を回避するという課題を解決するためにどのような枠組みを選択すべきかわからないという決定不可能性に対して、その場で何とか対処しようとする
a. 葛藤状況における威嚇ディスプレイ
b. 平静時の出会いにおける親和的マウンティング
c. チンパンジーの対角毛づくろい
・相互の行為の接続というレベルで、相手に行為接続の枠組みを提案してその接続を実現しようとするのでも、相手の提案に従属してそうしようとするのでもなく、それぞれが独立に、その状況においては「誰もがそうしようとすること」をするものとして、そのときの行為接続の枠組みを選択しつつ、そのときの自分の行為を選択して相互に行為を接続することによって、「再現可能な関係的秩序」が構成されている
・それぞれが独立にそうしていることが第三者的にも確認しうるものになるという意味でそれぞれの当事者の選択を正当化(して再現可能性を保証)するものになるためには、それぞれが同時に同じことを(誰とでも)するという形式のものになることが必要とされる・チンパンジーの対角毛づくろいは、「誰とでもする」ものにはなっていない

3.外部環境との関係づけの活動の集合化による「再現可能な関係的秩序」の構成
①直面する状況への対応における決定不可能性への対処として、外部環境との関係づけの枠組みを、「誰もがそう考えるはずのもの」という資格で仲間と共有して(同時に、なんとか仲間との敵対的な行為接続を回避して)社会的まとまりを作り出すことで、そのときの関係的秩序をそれぞれの当事者の「自律的選択」に支えられた再現可能なものに見せかける
②仲間との敵対的な行為接続を回避することを手がかりに外部環境との関係づけの行為を相互に調整して社会的まとまりを作り出す(とともに、一緒に同じ活動を行う)ことによって、そのときの関係的秩序をそれぞれの当事者の「意志的調整」に支えられた再現可能なものに見せかける

4.外部環境との関係づけの活動の統合化と統制化
①直面する課題への対処という「個人の立場でする外部世界との関係づけ」におけるより抽象度の高い枠組み(=選択肢集合を指定するもの)に目を向けてそれを仲間と共有することを手がかりに、実際に課題に対処しようとする
・それとは別の選択肢集合の存在が意識されない(その選択肢集合の選択が必然的なものに見える)ことがより確実になることに応じて、そのときの選択はより統合化された(画一化した)ものになる
・その枠組みを共有したうえで、その枠組み内のどの選択肢を選択するかについて一致を形成しようとする(儀礼による対処においては、「その儀礼を実行する/しない」という選択肢集合からの選択になる)
・一致による共同対処が実現すれば、それは「判断の共有」という正当性の体験をもたらす(そこで実現される「関係的秩序」が再現可能なものとして体験される)
・別の選択肢集合の存在が想定されていないという意味で、それぞれの選択肢に対応する行為カテゴリーは既定的(先行的)で多様性を包含する一般的なもの(比喩的に正当化されるもの)として想定されており、そのような選択を指定する「第三者的に識別される一般的な意味(=分離された表象)」が想定されている(「死を投げすてる」儀礼に対応する「死」という表象)

②仲間との関係づけにおける、抽象度が高く第三者的に識別される関係のあり方を確認することを手がかりにした、「外部世界との関係づけ」を伴った共同の活動における相互の行為の調整によって、無秩序を回避した状態を作り出そうとする
・関係づけの対象となる外部世界についての共通の意味の体験が相互の行為の調整を先導する
・その意味の体験は、比喩の論理や価値の実現を支える論理にもとづいて構成されたより抽象的な意味に対応する「表象」の存在が前提となっている(分配の対象としての肉)
・その意味の体験の共有がより確実なものになることに応じて、そのときの行為の調整に関わる統制はより強固なものになる
・その意味に対応した行為選択の幅の広さに応じて、相互の行為の接続が予想外の結末に至る可能を作り出す(秩序を維持するための実力行使が必要とされる)

5.「表象」とはなにか?
1)『アフォーダンスの心理学』
・機械論に毒された心理学は、神経系こそが刺激の受け手であり、反応の送り手であるという仮定を大前提とするため、脳が周囲の世界の「表象」を構成、利用すると考える
・表象理論が不適切であるのは、自らが直面する課題への対処のために表象を利用できるようになるためには、その表象からその課題に関連した情報を与えてくれる側面を前もって同定できるのでなければならないから
・心的表象がないというのではなく、そうした表象体系を仮定しただけでは私たちの行為・意識が説明できるわけではないということ
2)『感情の猿人』
・表象とは、機械論的な計算にもとづく行為選択を支える中間生成物であり、計算の対象となるものとして、ないしは、計算の結果に対応するものとして心に抱かれるもの
・表象主義とは、発し手として、自身の行動や感情の状態から独立に伝達を行いうる(自らの伝達行動を表象として利用しうるものにする)場合や、受け手として、発し手が次に何をするかからは独立に意味を解釈できる(相手の伝達行動を表象として利用できる)場合の方が自然選択上有利だとする考え方
・心の枢要な能力を「表象を抱く」ことだと考えている
・コミュニケーションを相手の心的状態を変えることだと考えている
3)「分離された表象(decoupled representations)」という考え方
・個体の行動的反応を直接的には、つまり1対1のかたちでは規定しないもの(内堀、2007:138)
・その対象との関係づけにおける決定不可能性のもとで、人びとの活動の統制と統合を可能にするためにでっちあげられたもの
 ←体験と行為を機械論的にリニアに接続するときの中間媒介物として捏造されたもの
4)食物の獲得を巡るサル的「所有」から人間的「所有」へ
①サル的「所有」
・同じ食物の獲得を巡る他者との競合の可能性が無視できない状況において、他者が把持しているものはその他者が「所有」するものと認め、それを獲得しようとする動機づけを抑制する
・そのとき非所有者は、その食物について、「それを把持する個体が所有するもの」という意味を識別していると考えられるが、それは、自らがそれを獲得しようとすれば相手が強く反撃することで敵対的衝突が不可避だと考えられるからであり、自らの行為選択を直接規定するものとしてその対象の意味を識別している(「分離された表象」ではない)
②人間的「所有(狩猟採集社会における食物分配と表裏一体のものとしての食物の「所有」)
・人間は(狩猟採集社会では)、食物を獲得してもその場で消費してしまわずに居住地まで持ち帰り、それをある手順で分配して、他者とともに消費する
・そのときの食物は「ある特定の個人の所有物であるが、後に仲間たちで分配されることになるもの」として表象されるが、その表象は、その表象を抱く者とそれとの関係づけのあり方を単純に指定するのではなく、そこでの価値の実現を支える論理に従って、それとの関係づけを伴った共同の活動を調整し、それを正当化するものとして用いられる
③チンパンジーの食物分配に伴う「所有」という意味の成立
・チンパンジー属の食物分配という現象を成立させている要因を考えるうえで不可欠な事態として、「それを把持する個体が所有するもの」という意味が、所有者と非所有者に共有されているということが考えられなければならない
・その食物について抱かれた「それを把持する個体が所有するもの」という表象は、それとの関係づけの行為を直接指示することはないが、たんに、それぞれが敵対的行為接続の回避に向けて適切な準備状態にあると確認し合うことに用いられるだけで、それとの関係づけを伴った人びとの共同的活動の統制してそれを正当化するものとして用いられるのではない