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研究会報告

2009年度第5回研究会

1) 伊藤詞子「制度 —種と種の出会いから考える」
【要旨】
ヒト以外の動物を対象とした制度についての議論は、チンパンジー属の食物分配を材料に黒田が詳細におこなっている(黒田1999)。それでは、食物分配以外にヒト以外の動物を対象に制度について考察を深められる材料はないだろうか?今村の制度の定義 ―「社会関係を維持運営するために作られたものはたとえ小さなものであっても『制度』といえる」(今村1992)― に従えば、食物分配以外にも制度的な要素は散見される。例えば、野生チンパンジーの母子間の関係は、その組み合わせによって多様であるが、その一方で、乳児であれば母親は授乳や移動時の運搬をおこない、子どもが自力で移動できるようになれば、移動の際に方向やタイミングを調整することは、どの組み合わせでも見られる。こうした相互の調整は、遺伝的なつながりによる必然性によって説明が可能だが、一方で、調整の実現は出産直後からの関わりの積み重ねに依存する(King 2002)。野生のチンパンジーは母子のみの孤独な世界で産まれるわけではなく、他の年齢も性別も個性もさまざまな多くのチンパンジーと暮らしている。さらに、そうした他のチンパンジーのなかには、血縁関係にあるか否かにかかわらず熱心に子どもと関わろうとする個体もいる。ときには、かなりの時間をそうした個体に「母親」が預けておくこともある(これには、もちろん子どもの側が他の個体を受けいれるという条件がつき、子ども自らが運搬される際に母親とそうした個体の間を行き来することさえある)。こうした個体は子どもにとっては年長者にあたるが、チンパンジー社会では年長者が年下のものの面倒をみることは一般的に認められる。チンパンジー社会では幼くして産みの親が死亡した場合には「養子取り」が一般に見られ、授乳をのぞくすべての世話がなされる(もちろん、オトナだけの都合で決まるのではなく、コドモの側の選択と依存の持続が必須)。このような場合、長期調査をおこなっていなければ、個体間関係のみから血縁関係の有無を判断することはほとんど不可能である。さらには、コドモは少々のことをしても怒られないが、同じことをオトナがやれば攻撃されることがあり、オトナとコドモの社会的区別が彼らの生活のなかでも重要な位置を占めていると思われる。これらの側面は制度的なものとして考察を進めることも可能であろう。一方で、もう一つ重要な側面がある。チンパンジーは、ヒトを含む霊長類のなかでもおそらく唯一、オトナがコドモのように遊ぶ種である。その組み合わせは、オス/メス、オトナ/コドモといったカテゴリーを超えたあらゆる組み合わせで、コドモ同士で見られる遊びとまったく同じ、追いかけっこやくすぐり合いなどがみられ、遊びの時に特有に発せられるプレイ・パントと呼ばれる笑い声も認められる。このことは、オトナ/コドモの区分が重要であると共に、そうした区分を乗り越える特徴を併せ持ってもいるといえる。この乗り越えはランダムにおこなわれるわけではなく、「遊び」という交渉を形成する過程でおこなわれ、チンパンジー社会からこの区分が消失するわけではないと推測できる。この区分の普遍性と状況によって変更可能であるという柔軟性は、人間とチンパンジーの交渉においても見られる。国内の飼育チンパンジーと飼育者間の相互行為についての調査からは、彼らが相互行為の枠組みを、豊かなモダリティーを駆使しながら、相互に幾重にも創り出していく様子が観察される。両者には枠組みを創り出すさいの注意の向け方やその配分に異なる点も見受けられ、上述の柔軟性とも関わっていると予想される。この柔軟性についての理解は、伝統的な制度的規則についての自然と文化の対立軸についての理解(例えば、レヴィ=ストロース 2008; p.66)に、別様の理解の可能性をもたらすものと思われる。

引用文献
今村仁司 1992 『現代思想を読む事典』講談社、東京.
黒田末寿 1999 『人類進化再考 -社会生成の考古学』以文社、東京.
King B. 2002. On patterned interactions and culture in great apes. In: Richard G. Fox & Barbara J. King, (Eds), Anthropology Beyond Culture. Berg, Oxford New York. pp:83-104.
レヴィ=ストロース C. 2008. 『親族の基本構造』青弓社、東京.

【配付資料】
1.はじめに
1-1.できすぎた話・・・? 「親は子供の面倒をみるものだ」
マハレでのある日のできごと。迷子になって大騒ぎしながら走り回っていたパフィー。
母親代わりをしていた、グェクロがしばらくしてからやってきて、パフィーが駆け下り
ていった斜面下の方を見ながら待ち続ける。パフィーの鳴き声はもうしない。さらに時
間が経過。観察路を下から、シーザー(若いオス)、パフィー、シンシア(シーザーの母親)の順に坂を少し急ぎ足で登ってくる。グェクロは眺めている。シーザーは少し興奮気味のようで、毛が少し逆立っている。数メートル近づいたところで、グェクロ立ち上がる。ほとんど同時にシーザーが走り出し、グェクロはパントグラントしながら逃げる。パフィーとシンシアは留まって傍観。シーザーとグェクロが走り去った方角で、悲鳴(恐らくグェクロ)。
子供同士の喧嘩は、その母親同士の喧嘩に発展することもある。これも、制度っぽい?

1-2.制度の集団性?
マハレのチンパンジーの頻繁な離合集散に基づく凝集性の高さは、裏を返せば離合集散
の度合いが低くなると凝集性が低くなるということでもある。つまり、集団の具体的連
続性が希薄化しているとも考えられる。
頻繁な離合集散と凝集性の高さは、サバとよばれる高密度に生息する蔓の結実フェノ
ロジーとつながっている。サバの果実が少なくなると、離合集散の度合いは低くなり、
1~数頭のみでメンバーがあまり変わらずに過ごし続けるようになる。チンパンジーが
なかなか発見できなくなる時期でもある。メンバー同士がほとんど顔を合わせることも
なく、数ヶ月にわたって過ごしているのに、「単位集団」なるものは連続的にあると言えるのだろうか?
不思議なことに、サバが結実をはじめると、以前のように頻繁に離合集散し合うよう
になる。サバの結実フェノロジーは、他の果実食物よりもずっと安定したパターンをも
つ。この安定性は、頻繁に離合集散しはじめるさいの重要な「広告」としてチンパンジ
ーたちにとって機能しているのかもしれない。チンパンジーたちは、サバが結実しはじ
めると、早い段階から利用しはじめ、結実量がピークを過ぎても長期にわたって利用し
続ける。このような採食と結実パターンの組み合わせは他には見られない(他のパター
ンとしては、結実量がピークに達した時点、ピーク直後など。また利用期間も結実期間
よりも短い)。
分散したまま過ごすことが可能であるにも関わらず、つまり、そのようにする必然性
はないにもかかわらず、チンパンジーたちが離合集散を頻繁におこなうように変化する
のは、頻繁な離合集散に基づく具体的な連続性とは異なるレベルの「集団性」であり、
制度的なものとして考えることも可能かもしれない。
しかし・・・やっぱり難しい・・・。

1-3.制度@今村
「社会のなかに存在するものはすべて制度である。私たちは大きな制度(例ー国家、議
会、学校など)ばかりを考えがちであるが、社会関係を維持運営するために作られたも
のはたとえ小さなものであっても「制度」といえる。例えば、資本主義経済体制はひと
つの歴史的制作物であるからまぎれもない制度であるが、この制度はより小さい諸制度
から組み立てられている。商品、貨幣、資本も制度である。この制度を考える経済観念
や行動パターンも制度である。制度とは、物的材料をベースにした観念・思考・行動の
ネット・ワークである。
ふつう私たちは社会が個人からなると考えている(原子論的社会観)。この考え方の裏
側には、現実的なものは個人だけだという想定がある。しかし現実的なものは、個人だ
けでなく個々人が共同に制作した(institute)制度も現実的なのである。いやそれどころか、制度は個々人を担い手として巻き込みつつ独自の運動をするがゆえにより現実的であると言える。社会は制度の複合体である。制度の観点から社会の動きを見る方がしばしば的を射る。マルクスが階級関係から社会を分析するというとき、彼は階級という制度の観点を立てたといってよい。」
今村仁司『現代思想を読む事典』pp: 366-367

言語を持たない動物を対象に制度を考える場合、観念や思考(@今村)を尋ねること
もできないので、関わり方の枠組みの分析が一つの糸口となりうる。

1-4.枠組みが先か、関わりが先か
関係は関わらなければつくれない。関わるためには出会わねばならない。集団研を踏ま
えると、集団は出会いやすさ、出会う確立を高める。その一方で、集団は出会いを重ね
ながら作られていくものでもある。
同様に、関係という枠組みは、それがあって関わり方が決まる側面と、関わり方によ
って関係が決まっていく側面の両方を併せ持っている。できあがった関係の枠組みを分
析しても、関係があるということ以上のことが言えるような気がしない。
いっそもっとミクロに、相互行為の場面でどのように枠組みを作り出すのかを分析し、
人間とチンパンジーの共通点や異なる点を見ていきたい。

2.種と種が出会うとき ―人とチンパンジーの共同作業
調査地:林原類人猿研究センター
調査対象:飼育チンパンジー(ロイ、ジャンバ、ツバキ―ナツキ、ミズキ―イロハ、ミ
サキ、ハツカ)と、面倒を見ている人(KF さん、KK さん)
場面:形態計測における共同作業
大枠組み:生活のパターン =チンパンジーの予測可能性
中枠組み:扉の開閉の音、かけ声(「やるよ~」など)、呼ばれる順番(固定されている)、開始と終了の際の基本姿勢(やるまで人は入れない・出られない、やらないと始まらない・終わらない)、仕事(計測)と遊びの区別、交渉者の限定(複数の人、チンパンジーが一緒にいる場合)
小枠組み(横になる姿勢): 空間を作り出す、横になる向き(前後左右)の限定・・・

3.制度に飼い慣らされる人
「制度は、あらゆる種の観念(イデオロギー)に突き動かされる個々人が、諸種の集団
を作って闘争と抵抗の関係をくりひろげる場である。制度は装置といってもよい。制度
や装置によって権力システムは維持される。フーコーが指摘したように、学校・監獄・
工場・病院・軍隊という国家装置は、それぞれ別々の機能を果たしながらも、権力に自
発的に服従する主体を生産する制度である。例えば、学校という文化装置は、訓練=学
習(discipline)を通して自立的市民の形成を目指す場所だと思われている。しかしこの
学校制度は、教師集団という制度と特定のイデオロギーという制度によって構成され、
具体的人間としての生徒を材料にして自発的に(「自分の判断でこれこれを選択した」という自立性の外見の下で)権力に服従する主体を生産する一種の工場である。この側面は学校ではあまり目立たないが、監獄や軍隊では顕著である。
ルイ・アルチュセールは社会の諸制度を国家のイデオロギー装置とよんだ。公的制度
だけでなく家族やマス・メディア、さらには労働組合も、それぞれに固有の儀礼的実践
(学校なら「合理性」、軍隊なら「規律」、組合なら「賃上げ」、家族なら「孝行」・・・)を通じてより大きな社会的規範を個々人に内面化させる。イデオロギー的に訓練され調教される主体があってはじめて、国家の政治権力は強制力ないし暴力なしに支配の網の目を拡大させることができる。一言でいえば、制度や装置は権力の安定装置である。近代資本主義は多くの矛盾と亀裂を抱えるために、その穴埋めのために次々と諸制度を産出する。国家装置としての制度の肥大化は近現代の宿命にして病理である。」
今村ibid

「制裁」については、この制度の項目には触れられていない。ただし、行間からは逸脱
の可能性があるからこそ、制度があるというようにも読める。チンパンジーの場合にも
(因果関係の証明は難しいとしても)、フィールドで見ている限りは、喧嘩は個体間の関わり方に逸脱が起因していると考えられる。
その一方で、チンパンジーは逸脱に対して柔軟でもある。オトナとコドモの区別はあ
るが(コドモは少々のことをしても怒られないが、同じことをオトナがやれば攻撃され
ることがある)、チンパンジーのオトナは、人を含む霊長類のなかで恐らく唯一、コドモとまったく同じように遊ぶ。つまり、オトナとコドモの区分を自由に行き来する。
GARI では優劣関係を基盤にチンパンジーと人がかかわる。チンパンジーは人の働きか
けによく応じており、そうした関係がよく機能しているようにも見えるが、形態計測を
おこなうさいに人の働きかけに応じるやり方は、命令に従っているというよりは、共同
作業をおこなっているといったほうが適切に思える。また、形態計測が終了すると、今
度はチンパンジー主導で遊びの働きかけが人間に対して繰り返しおこなわれる。
訓練や調教されることにチンパンジーは向いていないのかもしれない。だからこそ、
チンパンジーの社会は支配の網の目によって支えられ、維持されていないのかもしれな
い。言い換えれば、制度化とは真逆の方向を向いている。むしろ、例えば犬などの動物
の方が、ずっと制度に近いところにいる。


2) 杉山祐子「群れからムラへ—「妬み」と「関係」の調整をめぐって」
【要旨】
本発表では「制度」を考えるにあたって、農耕と定住化に関わる集団のありように焦点をあてた。このとき、成員間の葛藤の処理や調整に関わる局面に注目し、農耕民社会の妬みと呪いにまつわるしかけを、集団の凝集性を生み出すしくみに関連づけて検討した。葛藤は、当事者性とその場性(いま、ここ)に埋めこまれているが、その場その場の交渉によらず、それを回避するやりかたを手に入れること、すなわち「いま、ここからの離脱」が、制度にもっとも近いと考えたためである。
 農耕は、ある範囲の土地に一定期間留まることを前提とし、集住を必要とする。食料や労働力の相互供与システムの発達が、個としての食餌戦略から全体としての食餌戦略への転換を促す。農耕は、集団の構造化を強めたムラを指向する生活様式である。そこでは集団を作ることそれ自体が重要な目的となり、社会的な緊張や葛藤の調整が根本的な課題となる。
 集団が何らかの緊張関係を内包することは、狩猟採集民や牧畜民でも同様である。しかし民族誌の比較検討から、農耕民社会における緊張や葛藤の調整の局面で、「妬み」と呪いが特徴的に現れることが確認できる。農耕民における怒りや妬みの扱いは、人間の「内面」と内面に「感情」があることを前提している点で、狩猟採集民や牧畜民のそれとの違いをみせる。
 多くの場合、「妬み」は普遍的な感情として当然視されてきたが、比較の観点からみると、人間の「内面」を想定し、万人が「内面にある感情」をもつと想定すること自体が、きわめて制度的であるといえる。また先達の指摘どおり、それをさらに制度化したものが呪いである(掛谷1983など)。
 呪いが「妬み」によって発動する回路の想定は、「いまここ」の災厄を、妬みの現れや呪いの兆候として、「いまここ」とは別の位相へとずらす。二者間の社会関係の調整についてみると、それは当事者の直接交渉を通してではなく、「妬み」への予防的対処と、それが呪いとして発動する回路の管理や操作を通して、他者による制御可能なものになる。集団の成員の「内面」にそのような「感情」があると想定することによって、当事者同士が場面に応じてその行動を調整するはずの相互関係が、何らかの正当な方法で予め制御しうるものとして位置づけ直されることになり、制御する力をもつ専門家や権威を容認する素地が整えられる。


【配付資料】
群れからムラへ:「妬み」と「関係」の調整をめぐって

1. はじめに
(1) 人類の進化史は、生活様式のバリエーションが拡大した歴史に対応。
狩猟採集、牧畜、焼畑(移動)農耕、定着農耕。移動と定住。
   すべてをバリエーションとして保持したまま →国家
(2) バリエーション拡大のプロセスで大きな敷居は定住化(西田1986) 
① 農耕と定住化:遅延リターンシステム(Woodburn 1983)
 一定期間ある範囲の土地に留まることを必要とする生業、集住を常態とするような居住様式
② 食性の変化  幅の拡大→穀物が食性に加わる=加工の長時間化 共同作業がずっと効率的。共同することは食料生産のためよりも、消費プロセスのために有効。集住すること自体が重要に。
③ 食料、労働力の相互供与システム→広い範囲の食料資源を利用。個としての食餌戦略から全体としての食餌戦略へ  
④ 「集団」の構造化と強化—ムラを必要とする
(3) 緊張関係を内包する集団(伊谷、寺嶋2004): 移動することはそのような状況から生じる葛藤を回避するために有効な手だて。しかし、定住化によって少なくとも一定期間はその選択肢がなくなる
(4) 焼畑農耕民ベンバの居住集団(河合集団研成果) 長期的時間スパンで、集合と離散を繰り返す
  非構造の集団と構造化された居住集団としてのムラの重なりとそのダイナミクス
 「外部環境との関係づけにおける活動の集合化を促すような具体的な契機がない場面でも、そのような親和的な関係によって結びついた「集団」を作り出すことそれ自体をめざすような活動が不可避(北村 印刷中)」
  →定住化(遊動から定住へ)と直結した課題 
    親和的な関係の維持が生活上重要な課題である状況が狩猟採集社会や牧畜社会よりはるかに顕著。
    社会的な緊張や葛藤をどのように調整するか、が根本的な生活維持の方途。
(5) 葛藤とその調整に焦点をあて、「怒り」と「妬み」を手がかりに、制度の進化史的基盤という視点から考えてみたい。
① 順位と平等性 対等であることと「妬み」
② 葛藤と共同性(「内部の敵対を協力の提案によって解消すること(黒田1999:246 )」
③ ネガティブな「感情」の存在を想定することと規範
④ もうひとつの位相の生成(「文化範疇(曽我印刷中)」「参照する位相(杉山 印刷中)」「はるかな絆(寺嶋 印刷中)」など)

2. 制度を考えるときに:「いま、ここ」から離れること
 葛藤は当事者性とその場性(いま、ここ)に埋めこまれているものだが、それを、その場その場の交渉によらず、回避するやりかたを手に入れること(─いま、ここからの離脱)が、制度化にもっとも近い。このことは、定住化に不可欠。
多種多様な状況に対してそのつど逐一吟味し決定する負担を軽減するのが「制度」:制度の負担免除機能や バーガー&ルックマン『日常生活の構成』:習慣化
二者間の対面関係であれば、当然とおるはずのプロセスをスキップすることができるしかけ
3.「制度化された妬み」としての呪いと平準化機構、「平等社会」との敷居
(1) トングウェの「制度化された妬み」 (掛谷1983)
  焼畑農耕民トングウェ 最小生計努力の傾向性と食料の平均化の傾向性を基本的傾向性としてもつ。
「基本的傾向性に反する行動は、人びとに「妬み」などの感情を喚起し、人を呪って不幸に陥れる邪術が関与することになる。あるいは、このような「妬み」などの感情がひきおこす邪術への恐れが、サブシステンス・エコノミーにみられる基本的傾向性を支えているといってもよい232」
(2) 「生活様式の進化」との関連(掛谷1983)
① 狩猟採集民の場合
 「強い情動性に裏打ちされた過剰な象徴能力を獲得したヒトは、一方で強いテンションを内包した対面関係を基礎とした社会生活を営むことを宿命づけられており、そのコントロールに意をつくさねばならない。」

狩猟採集民として進化する過程で、タイムミニマイザーの道を選択したのではないかとするハーデスティの論を引用。食料調達に費やす以外の時間を他の活動に振り向けるーおしゃべり、歌、ダンスなど共同活動。「移動性が社会的葛藤を回避する機構ともなっている」
② 焼畑農耕民トングウェ(制度が前面に。「感情」の制度への転化を想定するところが特徴的)
タイムミニマイザー傾向もちつつも、定住生活の必然化とリネージ/クランシステムの制度的強化
「一族の人びとが集まって住もうとする集中の原理と、集住の結果もたらされるもめごと─「妬み」の感情を核とした、邪術をめぐる争い─を回避しようとする離散の原理との均衡のうえに成立する」

「妬み」は社会的葛藤のひとつの源泉。「妬み」の感情の発露が邪術
   「制度化された妬み」として機能し、トングウェの上記基本的傾向性を支える
  Richards、Gluckman、Turnerの記述─みな「妬み」はユニバーサルであるかのような扱い。そうなのか?
     また、なぜとくに農耕民について「妬み」という「感情」が問題になるのか 妬みの制度化を云々
    する以前に「妬み」という「感情」が万人の内側にあるという想定じたいが「制度」的。
4.「言わなければわからない」/隠された部分としての「妬み」
(2) 「感情」は見える(「表情化された身ぶり(菅原2002)」)。人間以外の動物にも感受できる。とくにチンパンジーなどの「共感力」人間にも当然その能力はあるはず。
     ところが、ベンバは「言わなければわからない」という。
(3) 「怒っている」「不快だ」というネガティブな感情は「言わなければわからない」 言語化して表明されるまで、見えていない(そこにない)かのように扱う。「感情」が「内部」にあるという想定のもと、感情を(ことばで)表明することの重要性—この事態をなんとかするつもりがあるかどうか 表面化させると、解決したも同じ扱い
(4) 言われたことばによって感情が表明されると考えること/言われずに隠された感情(怒り、妬み)の存在も生じる
  この「内にある怒り、妬み」の想定は、「いま、ここ」を越えるのにどうも有効らしい。
5. 狩猟採集民、牧畜民、農耕民の「怒り」と「妬み」
(1) 狩猟採集民(サン、ピグミー)(田中 菅原 市川)
① 「いま、ここ」が基点
② 徹底した食物分配(規範化された分配、柔軟な分配)
③ 活動そのもののシェアリング 「ともにいること」
④ 葛藤、もめごと 性関係をめぐる嫉妬  移動による回避
⑤ 超自然的な存在の影響によるとされる病など 共同の踊りなどによる治療 人の「感情」とのつながりは想定されない(?)
(2) 牧畜民(トゥルカナ(作道2004a、2004b)
① 「心がない」トゥルカナ 基本的に「いま、ここに」を始点とする相互交渉
② 病気治療も基本的に「問題解決型」(対症治療)だが、効果がなかった「糞肛門」の治療に「占い」  身近な他者の「怒り」がそれを引き起こす(原因)とみなすことも。その対処として、相手との話し合いを必要とする共同儀礼が指示される→共同の必然化
1. 身近な他者の「怒り」を想定することによって、結果的に、相手との関係改善や儀礼による対処
2. 占いは他者の情動をあつかいつつ、同時に自己の情動を調整する。このような「怒り」の認知は感情の直接的な発露を抑制し、実際の人間関係においてあらかじめの配慮を促進
3. 身近な人間関係にはもうひとつの側面、「怒り」を内在化した緊張関係があることを知らせ、警戒を促す
4. 確執の集約の場としての占いが倫理的な機能をはたす
③ しかし、その対処のしかたには交渉可能性が確保されている。外在化された規範に従うのではなく、その時々の交渉で成立した取り決めによる。超越的な第三者は介入せず、交渉において内面への注意は払われない(作道2004b)………「妬み」はどうか?
(3) 農耕民(ケニアのタイタ、タンザニアのトングウェ:怒りや妬みが人の「内面」にあることを想定、意識化
(4) タイタ(Harris 1986) 「怒り」が規範を外在的に成立させる
① 災厄は人の怒りによって引き起こされると考える。病気や災厄に際して、占いによって怒った相手を同定する。
② 当事者が名指された相手を呼び出し、神に対して「ほんとうのことを告白する」儀礼を行なうことによって、治療。
③ 神という超越的な第三者を想定することによって、「人を怒らせてはいけない」という規範が当事者の関係に外在的に成立。
④ 相手がどのような感情をもったかという内面の情動への注視がなされる
→人の「内面の情動」としての「怒り」
(5) トングウェ(掛谷1977,1983,1994)
① 病気はムフモによる占いによって「神の病」か「人の病」かを判じる
② 人の病は妬みを契機とする邪術によって引き起こされる。治療はそれを取り除く儀礼。
③ 「制度化された妬み」 平準化機構を裏支え
④ 神、精霊など超越的な第三者の想定、内面の情動への注視、内面の情動と超自然的な力との連動のしくみ=別の位相で同時進行する世界
6. ベンバのモノ化した妬み 関係制御の可能性の獲得
(1) タイタやトングウェと同様。が、妬みのタネが幅広い
(2) 怒りと妬み:どちらも呪いの契機になるが、怒りは自覚され、言葉にすることを奨励されるのに対して、妬みが(妬んだとされる)本人の言葉として表明されることはなく、他者(また占い)によって指摘される。このとき、その人がどのような感情をいだいたかという内面の情動世界へ
(3) 怒りは、その場その場で「わきおこるもの」だが、「妬み」はもともと人の「心の中に住む」─すべての人に共通してつねに存在する状態が想定される。
(4) この場合、万人に共通する「内にある妬み」という想定自体が制度的なもの。そのさらなる制度化が呪い(邪術)。「いまここ」にみられる災難は、その素になっている「妬み」の「あらわれ」であり、呪いの「兆候」であるという位相の「ずらし」。それへの対処としての占いと治療、儀礼。
7. 「内側にある妬み」が可能にすること
(1)  二者間の社会関係:当事者たちの直接の交渉をとおした調整によってではなく、源である「妬み」への予防的対処と、それが邪術として発動する回路の「管理」「操作」によって、他者による制御が可能になる。とても制度。
(2) 葛藤、緊張を当事者間でいまここのやりとりによって調整するのではなく、その「もと」である「妬み」が表に出ないように対処すればよい。もとである「妬み」はすべての人の内にあるのだから。うずまく妬みが村びと全員の内にあることによって、本来は、当事者がその行動を場面に応じて調整するはずの相互「関係」が、何らかの正当な方法であらかじめ制御しうるものとして位置づけなおされることになる。また、制御する力をもつ専門家の存在、権威
(3) もめごとだらけ、重層化している村の日常と妬みのあらわれの早期発見
① 夜の叫び(mbila)、占いとしての狩猟、病気治療(「集団」研での発表)
② 表面に出すことによって、共同する必要を作り出す 祖霊憑き集会、治療儀礼
③ 同じメンバー多くの人々のなかで、えんえんと続くさまざまな葛藤の重層のなかから、特定の時空、特定の人々を切り取ってパッチをあてることを可能にする。
     表面化させることは、「なんとかするつもりがある」ことを示すこと
     表すための様式化された行動
(4) 「近い者ほど恐ろしい」:親族、仲間が社会的両義性をもつ存在であることをにおわせる
   「いまここ」にある現象には、つねにもうひとつ別の世界がはりついていることを意識させる。
   さらなる凝集化、分裂、再編いずれにも。
(5) 呪いの記憶が新たな社会関係の基点になる
離れた人びとがあらたに共住しはじめるとき、 かつての「呪い事件」が掘り起こされる。その記憶が語りなおされることによって、相互の社会的距離が測られ、新たな社会関係を築く基点となる。
→離散を生み、再集合を保証する。
8.おわりに
 対等性と妬み 配分に個人の自由度あり、たがいが対等な位置にあるという前提=妬みやすい状況
 定着農耕民では?は今後

引用文献
市川光雄 1982『森の狩猟民』人文書院
掛谷誠 1977「サブシステンス・社会・超自然的世界ートングウェ族の場合—」人類学講座編纂委員会編『人 
       類学講座12 生態』雄山閣出版
---------1983 「妬みの生態学」大塚柳太郎編『現代の人類学Ⅰ 生態人類学』至文堂:229-241
----- 1994「焼畑農耕社会と平準化機構」大塚柳太郎編著『講座地球に生きる(3)資源への文化適応』 
雄山閣出版、121〜145ページ。
黒田末寿 1999 『人類進化再考』以文社
作道信介 2004a 「トゥルカナにおける他者の『怒り』」太田至編『遊動民』昭和堂
-----------2004b「交渉と怒り:北西ケニア・トゥルカナにおける怒りの経験」『社会心理学研究』第21巻第一号 53-73
菅原和孝 2002 『感情の猿=人』
田中二郎 1971『ブッシュマン(第二版)』思索社
西田正規 1986『定住革命』新曜社
Harris,G.G. 1986 Casting out Anger: Religion Among the Taita of Kenya (Cambridge Studies in Social and Cultural Anthropology)
Wolf,E.W. 1955 Types of Latin American peasantry :A preliminary discussion, AA vol.LVII-3
Woodburn, J. 1982. Egalitarian societies. Man (N.S.), 17 (3): 431-451