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研究会報告

2010年度第1回(通算第7回)研究会

1)春日直樹「存在論的人類学へ向けて:ミニブタとヒトをめぐる部分的連接」
【要旨】
 本発表は制度の存立を考える準備として、ヒトと他の哺乳類との比較についての柔軟なあり方を検討した。まずは、発表者が調査してきたフィジーの公立老人ホームにおける入居者および介護人たち、また医薬品の実験用に作出されるミニブタと管理者たちについて、それぞれの関係を比較することをこころみた。キーワードにもちいたのは、近年に生物学を中心に注目を集める「アナロジー」である。
 入居者と介護人、ミニブタと管理者は、それぞれアガンベンの言葉でいう「ゾーエー」「ビオス」において対照的な関係を構成するが、入居者自身、ミニブタ自体の論理はこの関係に抵触しない範囲で独自なものとして抽出できる。とくに入居者は、生を管理する「自然普遍主義」に対して「精神普遍主義」とも称すべき世界を構築している。ミニブタの論理を厳密に提示することは至難だが、公立老人ホームの入居者との間にアナロジカルな「部分的連接」をみいだしながら、その連接をつうじて両者のあり方を描き出すことは可能である。
 両者はともに、長い時間を積極的な生命活動でも休息でもないことに費やしており、生の緊張からの解放を選好しているようにみえる。この特有な時間は、過去―現在―未来の通念的な継起性に照らすと、脱時間化と多時間化という連接を形成している。しかも同様な時間のあり方は、管理者や介護人たち____生をケアする側____の依拠する「自然普遍主義」的な実践にもアナロジカルにみいだすことができる。
 「アナロジー」をつうじた比較の可能性がこの先どこまで広げられるのかについては、今後さらに検討していく必要がある。

【配付資料】
「存在論的人類学へ向けて:ミニブタとヒトをめぐる部分的連接」
29.4.2010 春日直樹  於AA研
その一
Pysica / metaphysicaから博物学へ
‘Directions for Sea-men, Bound for Far Voyage.’ Philosophical Transactions 1(9)(1665)における調査の諸項目[Bryden 1993]
Soil, Rivers, Harbors, Plants, Furuits, Animals….Inhabitants….Customs, Religion, Government, Police, Arts…..
”As it was institutionalized in the mid-Victorian period, the study of British anthropology looked less toward social theory than to antiquarianism and natural history, transformed as prehistory and Darwinian evolution.”[Stocking 1987:273]
Notes and Queries on Anthropology, for the Use of Travellers and Residents in Uncivilized Lands
Royal Anthropological Institute. 1st. edition 1874
博物館から大学へ →人文学と自然科学。
物的連続性と内面的非連続性に基礎を置く人文学としての人類学の成立。
人類学は、自然科学の有効性に依拠して人間特有の性質を探求し、あらゆる集団を人間化する営み。
他方で民族誌は、もろもろの事象や事物〔自然〕と人々〔人間〕とが特有の雰囲気を作り上げることで読者を魅了する。この齟齬に由来する人類学者の苦労。
しかし、人類学を致命的な欠陥品だと判断する必要はまったくない。
Descola[2009] ‘naturalism’ vs ‘animism’
Viveiros de Castro[1998] ‘multi-culturalism’(uni-naturalism) vs ‘multi-naturalism’
De Castroの議論は、Amerindianにおいて自然や人間が文化的にどう認識されているかではなく、彼らをとおしていったい自然や人間とは何なのかを問い直している。
’[...]anthropology’s true problems are not epistemological, but ontological’[1999:17]。
南北アメリカ、シベリア、東南アジアでは、普遍性は人間とその社会に付与されており、自然はたとえば身体のように不安定で生成変化をつづける。これに対して西洋においては、普遍なのは自然であり、human and social worldはnaturalistic monism(sociobiology)とan ontological dualism of nature/ cultureの間で揺れつづける他ない。
‘The assertion of this latter dualism, for all that, only reinforces the final referential character of the notion of nature, by revealing itself to be the direct descendant of the opposition between Nature and Supernature. Culture is the modern name of Spirit.’[1998:473-4] 
人類学者が研究対象としてきた文化、社会、人間は、西洋近代のnaturalist ontologyの内側で存立してきた。人類学者は今日、このontology自体に疑義を唱えることができるし、唱えなければいけない状況にある。

Strathern[1988] の革新と’quiet revolution’[Henare et als.eds.2007: 27]の進行。ただし・・・。

その二
Q研究所で作成される実験用ミニブタ →資料1.
フィジーの公立老人ホームのフィジー人  →資料2.
ともに生きるためのケアを受けている。
スタッフたちは彼らの栄養や衛生に気を配り、健康状態を記録に書き込む。
しかし、ミニブタに対しては「むき出しの生」であらしめるためにケアを授けて、「医療の進歩のため」に殺すことを用意する。老人ホームでは「むき出しの生」を拒否して、ふさわしい生き方のためにケアを授ける。それぞれのケアの論理に、ほころびはないのか。

ミニブタ___「人格」を払拭することの難しさ。
ホーム____ビオスの保持よりもゾーエーと対峙しつづけなければならない。「むき出しの生」を圧倒することこそが至上命題。結果として、現在の生を受け入れるよりも、まだみぬ「あたらしい生」(na bula vou)に思いを馳せて毎日の繰り返しを生きる。
「信仰というのは、あたかもみえたかのようになることだ」(Vakabauta e dua na ka me vaka ni sa raici oti)
「信じるんだ」(Vakabauta ga.)「祈るんだ」(Masu ga)
不可知にして予測を超えた世界への希求は、入居者が信じる「魂」(yalo)____「精神」とも訳せる____の普遍性によって支えられている。

研究所のスタッフがミニブタの精神を対象の外に置いたまま、身体の普遍的な秩序を前提にして厳格な方法で数値を測定しつづけることは、「多文化主義」を一表象とする「自然普遍主義」の実践そのものである。他方で、ホームのフィジー人入居者が「魂」の普遍性を強調し、その「魂」に起因する身体や事物や環境の一変を信じることは、「多自然主義」よりもむしろ「精神普遍主義」と表現するのが適切。
前者では、ミニブタが人間と同じ自然の普遍的規則に従う生物として対象化され、かつ精神を排除した身体として扱われる。ビオスなきゾーエーだけが主題となり、ミニブタの身体は厳密に特定化された「むき出しの生」として普遍的な秩序を体現しなければいけない。これに対し後者では、どんな人間も〔ここでは述べないがある種の動物も〕「魂」として共通の命令に服しており、身体は「魂」の乗り物となって「魂」の状況に応じた生成変化を遂げる。最後に行き着く先は「本当の生」なのだから、ゾーエー自体に重要性はない。自然の普遍的規則を探求するのではなく、「魂」にふさわしい秩序の顕現が求められている。

「自然普遍主義」と「精神普遍主義」では、時間のあり方が異なる。
「自然普遍主義」での時間は客観的な実在性を人に向けて誇示し、彼らのゾーエーとその果てに来るべき死を荘重で厳然たるテーマとして突きつける。ビオスを「精神」や「こころ」とともに必然化する。他方、「精神普遍主義」をみれば、有機体の生死とは別の次元で「本当の生」が主題化される。ゾーエーは相対的に下位の次元にあり、それは生か死かという差異が神の力の顕現として実体化する一領域でしかない。人と動物は人と人の場合と同様に、「魂」を基準として友愛の関係を築き、あるいは敵対しあう。

研究所でケアを受けるミニブタとホームでケアを授けるフィジー人スタッフとは、どのように対置されるのか。
ケアされる側のミニブタは精神を認められず、「人格化」という変身を禁じられている。
ケアする側のフィジー人スタッフは、現代に生きる良識家として、来世での根元的な変化をみずからに禁じている。

ケアする側とケアを受ける側、また「自然普遍主義」と「精神普遍主義」はともに不明瞭ながら論理の節合が可能であり、折り合いをつけつつ生のケアの実践を生みつづけていることがうかがえる。
残された一つの論題、それはミニブタの論理であり、ミニブタにとっての時間である。

その三
Heldらの実験は、ブタが他のブタの考えを理解するという可能性を肯定[Held et als 2002]。
「新動物学」を掲げるLyall Watsonはこれを援用して野生ミニブタを含むブタに「こころ」を認める方向を推奨する[2009]。
擬人化は必ずしも非科学的ではなく、「人間以外の種に私たちのような知的能力が本当にない場合だけ」間違いなのであり、「そして豚に関しては、そういった証明がされていいないことだけは確かだ」[前掲書328頁]。

問題はどのように擬人化するか。人間の投影という方法は、人がいかに成り立ち、その成り立ちがミニブタのそれとどう関連するのかという問題を内包している。まさに「自然普遍主義」「多自然主義」「精神普遍主義」といったテーマが突きつけられる。
「自然普遍主義」からの接近とは、いわゆる「心の理論」[Premack and Woodruff 1978]に代表されるが、精神を自然科学へと吸収するには気の遠い道のり。
「多自然主義」を採るなら、ミニブタにしかみえない世界を、人としての私たちがどう理解できるかという難問が立ちはだかる。
同様なことは、「精神普遍主義」を選択するときにもいえる。ミニブタの精神と私たちの精神はどう異なり、どのような関係に置かれてきたのか。どんな状況下で、身体や事物や環境が一変してしまうのかを明らかにする必要がある。
人の成り立ち、ミニブタの成り立ち、両者の関係を網羅的に選択することは、比較のあり方の決定でもある。
ストラザーンの「部分的連接」[2004]は、比較が前提とする全体―部分の形式を捨て去り、むしろ部分と部分を連接させて形式の外部であたらしい関係や問題を発見していくことを提唱する。
Q研究所のミニブタとスヴァ老人ホームのフィジー人には、確かに「部分的連接」がみつかる。半ば覚醒し半ばうとうととした状態である。
Ruckebuschの測定によれば、ブタは一日に19時間も体を横たえており、そのうちの8時間が睡眠で5時間はまどろみ(drowsiness)の状態にある[1972:640]。おそらくこのまどろみは完璧な覚醒ではないが、警戒もまったくは失っていない状態を意味する。腹這いになったり犬のように座ったりで、厚いまぶたを開けて深い眼窩の内側で目をとろんとさせ、表情筋ひとつ動かさないときを指す。
ホームのフィジー人たちもまた、一日の3分の2以上を寝床に横たわったり座ったりして過ごす。そのうちかなりの時間は目を開けてぼんやりした表情でじっとしている。 →資料3.

両者ともに長い時間を積極的な生命活動でも休息でもないことに費やす。
ミニブタも入居者も、生の緊張からの解放を選好しているようにみえる。

ミニブタと人の関係をあたらしく喚起するために、二つの議論を導入する。
→ジョルジュ・プーレによるベグルソンの解釈。アガンベンによるハイデガーの読解。

強い好奇心と警戒心をあわせもつミニブタは、しばしば生の緊張から離れてぼんやりと無為な状態へと入ること、そこでは覚醒した状況でも睡眠時でもない時間を経験している可能性があること。

放心や夢想の状態 → 脱時間化と多時間化との連接 
→「精神普遍主義」の実践=待つ現在と待たれる未来の連接の遂行         →連接の反復
→「自然普遍主義」の実践=時間を空間的な図表上に取り込むかぎりで脱時間的   →連接の反復
ミニブタの時間と人の時間の差異を放置する限りで多時間的

ミニブタと人の部分的連接(=夢想)をつうじて、「自然普遍主義」にも同質の時間的な連接をみいだすことができた今、「自然普遍主義」的実践を「夢想」へと連接しよう。それは裏返せば、「多自然主義」による覚醒である。
「あなた方は自然の普遍性を信じて、ミニブタの変化を人間の変化に同一化させようとしています。でも現実は逆ではないのですか? 理解不十分なやり方のままで、あなた方が自然の可変性を際限なく探求できるというのは、人間性が普遍だと信じているからです」

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引用文献:
アガンベン、G. . 2003『ホモ・サケル』高桑和巳訳、東京:以文社。
_________ 2004『開かれ』岡田温司・多賀健太郎訳、東京:平凡社。
Bryden, D.J. 1993 ‘Magnetic Inclinatory Needles.’ Notes Rec. R. Soc.Lond. 47(1):17-31.
カンギレム、G.. 2002『生命の認識』杉山吉弘訳、東京:法政大学出版局。
Descola, P. 2009 ‘Human Natures.’ Social Anthropology 17(2):145-157..
Held, S., Mendl., M., Laughlin K. and Byrne, R.W. 2002. ‘Cognition Studies with Pigs.’ Journal of
Animal Science 80 (E.Suppl. 1): E10-E17.
Henare, A., M.Holbraad and S.Wastel(eds.) 2007 Thinking through Things. New York:
Routledge.
春日直樹 2009「法と夢想と希望:フィジーの公立老人ホームで考える」玄田有史・
宇野重規編『希望のはじまり』、57-74頁。東京:東京大学出版会。
Kasuga N. 2009 ‘Toward the Science of Human-Nature.’ presented at the international
symposium on the Future of Anthropology, Kyoto University, December 7.
プーレ、G.. 1975 『プルースト的空間』山路昭・小副川明訳、東京:国文社。
Premack,D., and G.Woodruff 1978 ‘Does the Chimpanzee have a Theory of Mind?’
Behav.Sci. 4:515-526.
Ruckebusch, Y. ‘The Relevance of Drowsiness in the Circadian Cycle of Farm Animals.’
Animal Behaviour 20:637-43.
スペルベル、D. 2001『表彰は感染する』菅野盾樹訳、東京:新曜社。
Stocking, G. 1987 Victorian Anthropology. London: The Free Press.
Strathern, M. 1988 The Gender of the Gift. London: The University of California Press.
_______ 2004 Partial Connections(updated edition). Oxford: Altamira Press.
________ 2005 Kinship, Law and the Unexpected. New York: Cambridge University Press.
谷川学ほか編 2000『ミニブタ実験マニュアル』エス・エル・エー研究所。
Viveiros de Castro, Eduardo 1998 ‘Cosmological Deixis and Amerindian Perspectivism.’ Journal
of the Royal Anthropological Institute(NS) 4: 469-88.
1999 Comments on ‘Animism Revisited,’ Current Anthropology. 40(Suppl.):S79-80
2003 ‘And.’ Manchester Papers in Social Anthropology 7: 1-20
ワトソン、L. 2009『思考する豚』福岡伸一訳、東京:木楽舎。
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※以下の資料は長大なので、ここに載せることができません。必要なかたは河合(kkawai@aa.tufs.ac.jp)までご連絡ください。

資料1.
----春日「生のケアと時間」西井涼子編『時間の人類学』(来年刊行予定)より--
資料2.
----春日2009「法と夢想と希望」玄田有史・宇野重規編『希望学4 希望のはじまり』東京:東京大学出版会---
資料3.
----Kasuga 2009 ‘Toward the Science of “Human-Nature”.’ Presented at Symposium ‘The Future of Anthropology’, Kyoto, December 7.----


2)星泉「ルールは誰が決めている?:社会脳とことば」
【要旨】
 本発表では、人間社会における「制度」的なものの基盤となっている言語を人間の脳と社会の間 に位置するネットワーク構造としてとらえ、言語の運用ルールである文法が、どのように形成され るのか、どのように変化していくのか、という点について考察した。
 藤井直敬氏の社会脳(ソーシャルブレインズ)の研究によれば、ヒトの脳が機能拡張した背景に は、ヒトの脳が、神経細胞がたくさん詰まった六層のネットワーク構造である「カラム構造」からなり、それを基本ユニットとして、複雑な神経ネットワークを多重構造で進化させることができた。それゆえ、大量の情報処理を可能にする「情報構造化能力」を持ったという点が大きいという。すなわち、ヒトの脳は、すでにあるもの(カラム構造)の数を増やして新しい機能とスケーラビリティを確保する、というやり方で進化してきたという。このことと、消費できるエネルギーが限られているという制約から、ヒトはなるべく少ない認知コストで、最適な社会環境を維持しなければならない状況におかれていると考えられるという。ヒトが集団を形成してできる社会という場でも、社会集団はなるべく認知コストが少ないほうが望ましく、それゆえ様々なルール、伝統が形成されていく。そしてまた、いったん獲得されたルールも、他者との相互作用を契機に、常に新しいルールとして生まれ変わっていくと見なすことができる。
 藤井氏の指摘するように社会のルールをとらえると、言語もまた音韻であれ、文法であれ、こうしたヒトの脳の構造的な進化と制約の中で生み出され、並行的なネットワーク構造を持つ現象と考えることができる。同じルールを共有するメンバーの間で、相互作用を行うことで、言語が維持、実行されている。そして相互作用を行うことで、新しい文法が常に作り続けられているのである。旧知のルール、社会環境を維持するためのルールに従おうとする同調の圧力があり、なおかつ他者との相互作用が増加し、多様になればなるほど変化の契機が増えると言える。
 こうした考察をふまえ、特に言語の変化がどのように起こっていくか、という側面に焦点を当てて、発表者が実際に研究している現代チベット語の調査と、十四世紀に書かれた文献に残されたチベット語の調査の比較を通じて、言語のルールが変容していく様子を「文法化」(語彙的な意味を持つ要素が汎用性が高まることで実体的な意味を失い、文法機能を表す要素に変化していくという現象を指す)というキーワードを使って事例紹介した。
 最初の事例は、mkhan という接辞が、古い時代には名詞の語幹と結合して「~の専門家」という意味しか表さなかったのが、後代になって動詞と結合するようになり、汎用性が高まって「~する人」という意味に変化し、さらにはその後ろに別の動詞を伴うことによって動詞述語としての用法を発展させて「これから~することになっている」という意味で用いられるようになったという事例を紹介した。名詞語幹だけでなく動詞語幹とも結合するという選択をある時代の人びとがしたことによってその後の変化の道筋が付けられた事例である。
 次の事例では、既存のルールの解釈が変化して、別のルールの生成に影響を与えた可能性があることを示した。チベット語にはウチとソトとも呼べる判断基準によって yin と red という二種の判断動詞を選択している。このウチとソトという判断基準は、存在動詞における「所有」と「存在」という意味的な対立の解釈が徐々に変化していくことで得られたものではないかと考えられる。9~11 世紀の文献では、所有(もともとある)、存在(いまある)という意味的な対立をもって用いられていた yod と’dug という二種の存在動詞は、14 世紀の文献では、話し手にとって定着した知識(定着知)であるか、その場の観察によって得られた知識(観察知)であるか、という対立で使い分けられるようになった。この使い分けには、自分の話をするなら前者、他者の話をするなら後者という一定の傾向が見られる。一歩踏み込んで言えば、定着知に自分の知っているものを開陳するという側面、観察知に他者を見つめるまなざしという側面があり、自分と他者、すなわちウチとソトという対立が内包されていると考えることができる。この内包されたウチとソトの対立が、歴史的には一つしかなかった判断動詞に、二項対立の成立をうながした可能性があると考えられる。この対立関係の背景として、地域間交流の発展を考慮に入れる必要性がある。18 世紀の東チベットの文献には判断動詞 red が頻繁に使用されているという報告があり、さらに東チベットの文化的発展と中央チベットと東チベットの人的交流が、中央チベットの言語に影響を与えた可能性は否定できない。さらに、yin と red のウチとソトの二項対立は、存在動詞の定着知用法の yod と yog red のウチとソトの二項対立をもたらしていることも述べた。
 変化のきっかけは「特定の誰か(たち)」が作るものかもしれないが、一旦人びとの間で広がりはじめ、当たり前になると、今度はその当たり前なものが別の当たり前を生み出す呼び水となるのである。結果的に「みんな」の手で変化を引き起こしてしまっていた、としか言いようのない現象である。

【配付資料】
ルールはだれが決めている? —社会脳とことば—
星泉(東京外国語大学AA研)

1 はじめに—自己紹介をかねて
1.1 「人と人の関係」の中で立ち現れる文法という視点
チベット語の文法はどうなっているのか? 同じ出来事を語るにも、複数の助動詞が選択できる。教科書的な説明では、人称に応じて助動詞選択が行われているという話。しかし、その使い分けの実態は、彼らと一緒に暮らしていく中ではじめてわかってきた。人称と対応しているというより、「人と人の関係」の中で立ち現れてくるという視点で見る必要があった。どういう知識を持っている誰が、どういう意図または戦略で、どんな知識を持っていると想定される誰に語りかけるのか、そうしたことが絡み合って出力される。
何をどこまで記述するのが文法?様々な社会的要因、環境要因などを排除して、純粋に言語の文法のみを取り出して科学的に記述する、という研究態度が言語研究の主流。しかしそれで人間のことばが分かったことになるのか?
 人間を見ず、言語だけを見る言語学?

1.2 子育てとわたし
人間がことばを習得していく姿を目の当たりにした貴重な経験。親との関係の中で、また保育園の先生や友人との関係の中で、つまり「人と人との関係」の中で、子供たち自身が適応的に選択しながら、文法を形作っていく様をフィールドワークする日々。
子供を通じて見えること:知らないものに対する不安と好奇心。すでに知っていることは安心するので執着するが、新しいことをするのも大好き。
→ 大人もたいして変わらない。ことばのもつ保守性、ことばの変化のみなもとはこのあたり?

1.3 時を経るに従って変化する文法という視点
フィールドワークに行けない中で、古いチベット語テキストを用いた文献による文法研究に着手。書きことばに残された変化の痕跡をたどる。変化の中にかいま見えるいにしえの人々の行動戦略。変化を受け入れ、変化の主体を担った人々。
中世から現代の文法を見ることによる発見。

1.4 脳とことば
脳あってのことば。脳科学の研究の進展は常に気になっている。
言語学の世界でも、認知科学の発展をうけて、認知言語学の研究が盛んになってきている。また、脳科学の世界からも、チョムスキーの生成文法理論の正しさを証明しようとする研究が現れている(たとえば酒井邦嘉氏ら)。言語の起源や進化についても、高い関心が寄せられている(漸進変化説、前適応説、突然進化説)。記述言語学の世界は脳科学研究からはいまひとつ遠いところにあるが...。

私が脳とことばの関係について考えるうえで、非常に興味深いと思ったのは、ニホンザルの実験を通じて脳の社会的機能の研究に取り組む藤井直敬氏(理化学研究所脳科学総合研究センター「適応知性研究チーム」チームリーダー)の研究。著書:『予想脳』(岩波科学ライブラリー)、『つなが る脳』(NTT 出版)、『ソーシャルブレインズ入門 〈社会脳〉って何だろう』(講談社現代新書)

2 社会の中の脳—藤井直敬氏の研究の紹介
「社会を作り、他人とつながっていたい」という関係欲求を持つ人間。
「ソーシャルブレインズ」とはわたしたちが社会の中で生き抜くために必須の脳の働きであり、また、社会に直面したときにいかにふるまうかという意思決定のしくみである。
脳は孤立していない。常に外部に開かれたオープンなシステム。脳をそういうものとしてとらえて研究する必要がある。社会の中で暮らす私たち。他者や環境との双方向のインタラクションがある。→脳にはそのインタラクションに応じてわたしたちの行動を調節するしくみがあるはず。コミュニケーション機能の理解抜きには脳を理解したとは言えない。

2.1 脳の機能拡張
•「脳のしわ」はカラム構造(神経細胞がたくさん詰まった六層のネットワーク構造)
• それぞれのカラムが取り扱う情報は少しずつ異なる(視覚情報のみ、聴覚情報のみ、など)
• カラムはもともと汎用性をもつ機能単位であったものが、進化もしくは発達過程で、必要に応じて最適化されることで異なる機能を持つようになったらしい

• 大脳皮質は薄いので、カラムは横方向へ拡張
• カラム構造を基本ユニットとして採用することで脳はスケーラビリティ(システムのサイズやリソース配分を容易に変更できる性質)を確保
• ヒトの脳の機能拡張は、「すでにあるもの(カラム構造)の数を増やして新しい機能とスケーラビリティを確保する」というやり方で進化してきた人の社会の発展とも非常に似た解決方法とも言える。神経細胞のネットワーク構造と社会のネットワーク構造を一元的に読み解く可能性?

※『予想脳』より:情報構造化能力(取り込んだ情報を統合し、それによって情報にさまざまなタグを付加し、脳内に情報構造体を作る能力)。サルも人間も共通してこの能力をもつが、神経細胞数の違いから、脳内情報構造体の厚みがだいぶ違う。脳内情報構造体の厚みを増すことに成功したことが人間の特徴。神経ネットワークの多重構造化により、直接的な表現だけでなく、より曖昧な形で情報を抽象的、記号的に表現できるようになった。高められた抽象化能力。自己の客観化。他者も客観化。記号化能力は複雑な社会構造を理解し操作するために非常に有用。(脳→ことば→社会)

2.2 非社会的な神経科学から社会的な神経科学へ
これまでの神経科学は脳のモジュールごとの機能を明らかにするというモジュール仮説に基づく
研究。一つの脳を徹底的に制限した環境のもとで研究する。この研究方法では、脳内の階層構造を意識しにくく、また、領域間の階層的なネットワークにまで注意を広げることが難しくなる。
一方、ソーシャルブレインズ研究では、他者との関わりの中にある脳を研究する。他者との相互作用の中で発揮されている社会的な適応能力を解き明かすという視点。
しかし、「人と人との関係」という現象は不可逆で再現性がない。絶対性も普遍性もない。そうした現象を科学がどうやって取り扱うのか?
近年、ようやく長期留置可能かつ低侵襲性の ECoG 電極(脳の表面に置くシート状の電極)やモーションキャプチャなどを活用した「多次元生体情報記録手法」を用いて、長時間安定して神経活動の記録ができるようになった。この手法を使うと、脳の広範囲から同時に記録できるし、また非常にたくさんの情報が記録信号に含まれているという。藤井氏のチームはこの手法を用いて複数のニホンザルを競合関係に置いた場合の行動および神経細胞の活動を記録している。

2.3 脳内の他者認知メカニズム
他者と関わるとき、脳内の神経細胞には何が起こるか?これを二頭のサルを使った実験で見る。
• 競合関係にないときは相手のサルを無視。左頭頂葉の神経細胞も自分の右腕にしか反応しない。もう一頭のサルにも反応しない
• 二頭の距離を近づけて競合関係を作ると、神経細胞が、自分の左手と、さらには相手の腕の動きにも反応するようになった
• 他者との社会的なつながりで変わる身体イメージ
• 自分自身の身体にしか反応しなかった神経細胞が、社会的つながりを持った他者の存在によってその性質を変化させ、自他を含む社会空間を身体イメージの拡張として表象し直す
• サルの脳内で表象されている社会空間の認知の仕方は、一人のときと他者が存在するときとではまったく異なるものになっている

2.4 認知コストからみる脳の構造的保守性
サルはいったん覚えたことをあくまでも使おうとし、旧知の方法で何とかやり過ごそうとする傾向がある。ヒトも基本的には同じ。
• ヒトの脳はギリギリのエネルギー供給で何とかやっている(脳内環境は厳しい!)※
• 認知コストの増大は NG
• 少ない認知コストで、自分にとっての最適な社会環境を維持しなければならない
• あらゆる人が保守的傾向を持つことを説明できる
• 認知コストの観点から、脳自体が構造的に保守的と言える
※人の脳の重量はチンパンジーの四倍だが、血流量は二倍。

2.5 社会集団は小さなコストを目指す
• 他者との相互作用が前提とされる中で、社会に与えられる適度な自由度の制限は「認知コスト」を軽減する(評判、評価、ブランド)
• 日常の行動は実はほとんどルーチン化、自動化されている(認知コストをかけない)
• 制約に従う生き方は脳のリソースをほとんど使わない最適な生き方!
• 一人一人のエネルギーコストを下げることで、社会全体のオペレーションコストを下げるという利点
• 社会集団は小さなコストを目指す(実は考えている以上に行動の選択の少ない環境に生きている)

2.6 ルールは認知コスト削減のために?
個別の事象に遭遇するたびに、毎回新しい解決システムを作るか、物事を一般化して類似の事象には旧知の解決システムで対応するか。ルールが分からないと不安。
• 認知コストは少なければ少ないほど脳にとって好ましい
• 脳内にすでに構築されている既存の方法に依存したい、認知コストを削減したいという圧力が働く
• 文化の中で形成されてきた既存のルールに従うのが脳にとって楽
• ルールはわたしたちの選択肢の幅を自動的に狭めてくれる
• 選択肢が狭まることは、脳のエネルギーバランスにとって有利
• しかもそれに従っている限り、社会的な排除を受けることはない
• 社会全体から見ても、各個人が認知コストをセーブできるのであれば大きなメリットになり、社会構造の安定をもたらす

2.7 つながる喜びと社会的制約、そしてルール変容の契機
• 社会的制約があるからこそ他者とつながることができる
• 社会的抑制は他者とのコミュニケーションをもたらす→他者とつながる喜び
• 他者とのインタラクションによって得られる想定外の情報や刺激→ダイナミックで多様な創造性
• 多様な他者による予想不可能な社会環境の中、数々の制約をうけつつ他者とのコミュニケー
ションを成立させ、心だけを自由に解き放つことで創造性が生み出される

2.8 わたしたちの身体を通して変容するルール
• ルールとはわたしたちの行動を抑制する環境条件
• わたしたちの行動に影響を与えるルールは、社会からトップダウン的に与えられるだけでなく、各個人がそれを受け入れ、咀嚼して脳内に取り込むことで成り立つ。
• 社会というシステムとその構成要素であるわたしたちの間に起きる相互作用によって維持、実行されている。
• 既存のルールを獲得した後は、わたしたち各自が社会と相互作用を行うことで新しいルールを常に作っているとみなすべき

2.9 脳細胞と社会を一元的に見る
• 脳は神経細胞から始まる多重的複雑ネットワーク
• 社会も個人から始まり、人々が互いにつながることで多層的ネットワークシステムを実現している
• 脳と社会は独立したネットワークではなく、人を介してつながっている
• 身体の境界面を境にして階層的な室の異なる二つのネットワークが存在する→両者の間に共通するコミュニケーションプロトコルの存在が想定される
• 社会を、多くの要素が形作る多層的構造を持つネットワークだと考え、階層構造の全体像をはっきりと理解した上で、ネットワーク特性などの科学的記述方法を使って一元的にとらえることがこれからの研究の道筋

3 社会の中のことば
3.1 ことば—脳と社会の間に位置するネットワーク構造?
• 限られた音素を限られたルールに従って組み合わせることで非常にたくさんの語を作ることができる
• 語を限られたルールに従って組み合わせることで無限の文を作ることができる
• 文法という共有ルールに従うことで認知コストを下げている
• いったん獲得すればほとんどの部分が自動的に実施できるようになる
• 同じルールを共有するメンバーの間で相互作用を行うことで維持、実行されている
• いったん獲得した後は、各自が様々な人と相互作用を行うことで新しい文法を常に作り続けている

ことばは脳に楽なようにできている。シンプルなルールで複雑な現象を整理し、認知コストを大幅に下げている。

3.2 カテゴリー化とことば
• 似たモノをカテゴリー化する能力
• 違うモノも同じと判定することのできる能力
• モノだけでなく現象もカテゴリー化する(現象のパターンへの名付け)
• ことばでカテゴリーにラベルを貼る(他者とラベルを共有する)

3.3 乳幼児の言語習得
1. テンプレートの発見(こういう時はこう言えばいいのか!)
2. テンプレート基礎練習期。徹底的なコピー(表情、声音までも。保育園の先生そっくりなこ
とを言う娘。固定した組み合わせによるテンプレートの練習)
3. テンプレート応用練習期。組み合わせを自分なりに工夫(自分の声のレベルになる。言いたいことに近づく)
4. 文法要素のテンプレート一丁上がり
5. テンプレート応用期。時宜に応じた適切なテンプレート使用

周囲の人々とのやりとりの中で、反応を見ながら、微調整を繰り返していく。蓄積が進むにつれて、すでに自動化されている部分が増えていく。それを存分に活用して、文法要素のテンプレートの発見から仕上げまでの時間を効率的に圧縮することができるようになる。

4 ことばのルールが変化していくとき
歴史的な変化。その要因。なるべく変わらない方が楽。しかし、不特定多数の他者が関わること
でどうしても変わっていってしまう。

4.1 文法化という現象
• 文法の運用形態はかなり柔軟であり、決して堅牢なものではない。常に変化の契機を含む。
•「みんなが言うから」変わらない部分と、「みんなが言うから」変わっていってしまう部分。
•「みんなが言うから」繰り返し使われ、あちこちで使われる→意味が薄まっていく(漂白作用)→意味の薄いものは便利→文法機能を表す語として使い回す(文法化)

チベット語の mkhan という名詞化接辞。もともとは名詞の語幹について「~の専門家」という意味を表していた(陶工、書記など)が、後代になって動詞の後ろにつくようになり、汎用性が高まり、「~をする人」という意味に薄まっていった。さらには「人」さえ表さず、「~という属性をもつもの」という意味に変化。

4.2 名詞を作っていたはずが、助動詞の一部に
動詞-mkhan の後に判断動詞を伴うことによって、「~する人だ」という意味で用いられていたものが、意味がズレていき、「これから~する予定だ」「~することになっている」という意味を表すように変化している。現状では「~する人だ」と「~することになっている」が併存している。mkhan が動詞とともに用いられ汎用性が高まることによって意味の漂白作用が起こり、自由度が増したが故に後続の動詞との結びつきが強化され、結果的に名詞句という固い結合が溶け出し、
構造が変化した。

〔動詞-mkhan〕+コピュラ動詞 → 〔動詞-mkhan +コピュラ動詞〕

4.3 ウチ・ソト意識の形成
判断動詞に yin と red の二種ある。話し手が叙述対象をウチのものとして述べる(自分に関することを語る)ときには yin が、ソトのものとして述べる(客観的な事実として語る)ときには red が用いられる。古い文献には yin しか出てこない。どういう経緯で、いつ頃 red が入ってきたのか? 存在動詞には yod、’dug、yog red の三種がある。ウチのものについては yod が、ソトのものについては yog red が用いられる。これらはその話題が話し手にとって定着した知識(定着知)である場合に用いられる。これに対し、その場の観察によって得られた知識(観察知)である場合には ’dug が用いられる。このうち古い文献に現れるのは yod と’dug だけである。コピュラ動詞の red と同様、yog red は後から参入したもの。

9~11 世紀頃の文献では、yod と’dug は定着知と観察知という対立というよりは、所有(もともとある)、存在(いまある)という対立。14 世紀の文献では定着知と観察知という側面が明確化してくる。定着知は自分の知っているものを開陳するという側面、観察知は他者を見つめるまなざしという側面があり、自分と他者、すなわちウチとソトという対立が内包されている。この内包されたウチとソトの対立が、判断動詞の二項対立の成立をうながした可能性があると考えている。この対立関係は、社会生活を営むうえで極めて頻繁に意識に上る基本的なものであるから、判断動詞においても、この対立を表す新しい形式が参入してくることがあってもおかしいこと
ではない。

その背景として、地域間交流の発展を考慮に入れる必要性。18 世紀の東チベットの文献には判断動詞 red が頻繁に使用されているという報告。東チベットの文化的発展。中央チベットとの人的交流(特に商人と僧侶、巡礼者)。中央チベットのチベット語に与えた影響。

さらに、yin と red のウチとソトの二項対立は、存在動詞の定着知用法の yod と yog red のウチとソトの二項対立をもたらした。

ことばは常に変化の契機をはらみ、オープンなもの。やわらかい構造。そうしたものとして描くにはどうしたらよいか?

制度というものをどうとらえるか、文法をどうとらえるか、脳のしくみをどうとらえるか。つながっているように思える。藤井氏の言うような一元的にとらえる方法を模索するには?


3)山越言「チンパンジーの社会組織に関する地域差とその要因」
【要旨】 
野生チンパンジーとボノボは、単位集団(コミュニティ)の内部で、メンバーや
大きさが常に変動するサブグループ(パーティ)を形成する離合集散型の社会を
持つ。離合集散の動態が食物資源をめぐる種内個体間競争によって影響を受ける
という仮説のもと、サブグループサイズと主要食物の季節変動の相関に注目する
研究が行われてきた。ボノボはチンパンジーに比べ、平均的に大きなサブグルー
プを形成し、メス同士の社会関係も密であることが指摘されていた。その理由と
して、チンパンジーは果実不足期に依存しなくてはならない地上性草本に関して
ゴリラと競合するが、ゴリラと生息域が重ならないボノボはそのような競合から
自由であるためである、という仮説が提唱され、各地で検証が試みられた。さら
にこの仮説は、サブグループサイズが生態学的に限定されないボノボでは、メス
が団結してオスの攻撃性に対抗することができ、結果として子殺しなどの少ない
平和的な社会が形成される、と主張している。20年にわたる検証作業によって地
上性草本の重要性は否定されつつあるが、地上性草本を他の食物を含む食物競争
一般に置き換えれば、仮説の根幹自体はまだ魅力を失っていない。一方、ダホメ
ギャップで現在のゴリラの生息域と断絶している西アフリカのチンパンジーは、
地上性草本仮説が想定する地理的条件としてはボノボと同位相にある。たとえば
発表者が研究しているギニア・ボッソウのチンパンジー集団では、果実不足期の
地上性草本への依存は見られないものの、メスの集合性の高さや子殺しが希なこ
となど、地上性草本仮説の視点から見て、ボノボとの興味深い共通点が観察され
ている。コートジボワールのタイ国立公園のチンパンジー集団でも、一貫してメ
スの社会関係は密であり、東アフリカのチンパンジーよりはむしろボノボ的に見
える。アフリカの熱帯林を舞台にして、ゴリラ、東西チンパンジー、ボノボの進
化史を再構築する作業は発展途上である。とくにゴリラと東アフリカのチンパン
ジーが同所的に生息することがもたらす、両者の社会・生態への多面的な影響を
分析することが当面の最重要課題であろう。また、これらの進化史的・生態学的
な要因が、種・亜種間の社会的な相違をどこまで説明できるのかについての検討
も必要であろう。

【配付資料】
「チンパンジーの社会組織に関する地域差とその要因」
山越 言 (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

● 個人的な研究史:院生時代
・1991年度末 京大理学部人類進化論研究室での課題研究「ニホンザルの estrous call の音響的特徴について」
・1992年4月に院生として霊長類研究所へ入所。杉山幸丸科研隊のメンバーに。以後、ボッソウのチンパンジー群を対象に研究を続ける。
・ギニア・ボッソウでの調査: 第一回調査1992年12月-1993年3月、第二回1993年9月-1994年1月、第3回1994年12月-1996年1月。
・当時の研究計画「チンパンジーの社会組織に関する地域差とその要因」
・チンパンジーの社会構造の「ランガム・モデル」(Wrangham 1975)
→メスは個別に小領域、オスは徒党を組んで複数のメスの領域をカバー ・ゴンベでは、オスが社交的でメスは非社交的。しかし、西アフリカのチンパ ンジーは違うという指摘(Sugiyama 1988、Boesch 1991)
・第二回調査時の徒労感(社会行動のデータを取っても、外部の生態学的要因との対応関係が明示できなければ問いに答えられない)
・ランガムのTHV仮説の存在(Wrangham 1986):ボノボとチンパンジーのパーティ・サイズ比較→平和的なボノボ(メスによる団体交渉権)、攻撃的なチンパンジー
・第三回調査でフェノロジートレイルを設定、果実生産の季節変化を調査
・相転移のような遊動ストラテジーの季節変化に呆然とする
・1-5月 果実豊富、活発、集合性高い、訪問パッチ数多い
・6-8月 果実不足期、非活発、集合性低い、訪問パッチ数少ない、少数の食物 品目に依存(fallback foods)→道具使用の生態的機能(博士論文、Yamakoshi 1998)
・パーティサイズ研究、メスの集合性・社会性の研究は結果的にD論としては放棄
・"Are West African Chimpanzees Another Bonobo?" (Yamakoshi 2004)
・ランガムのTHV仮説におけるボノボの位置は、西アフリカチンパンジーにそ のまま置き換えられる
・メスの社会性(タイ→Lehmann & Boesch 2005等で再確認)
・子殺しの事例数
・食物不足期の食物?(ボノボでも西チンパンジーでもはっきりしない)
・パーティサイズを測定する限界

● その後の展開
・ボッソウで霊長類学的研究をする限界(不自然な個体群というレッテル: 隣接群なし、生息地の人為的攪乱、少ない個体群サイズ、メスの移入なし・・)
・人々との関係自体を問う方向(野生動物保全、人と動物の共生→地域研究という枠組み)
・ボッソウの共生状況を構成する諸アクター全般を対象にする
・チンパンジー個体群(歴史: 40-50年代のフランス植民地時代の記載研究、 60年代のオランダ隊、コルトラントのヒョウ実験、これらの資料との接合、感 染症、猿害)→Yamakoshi (in press)
・Gbanの森(精霊の森、森林被服状況の変化、城壁としての機能?、アブラヤ シをバッファーとする共存)→山越1999, 2003, 2009a
・村人(マノン、「アニミスト」、移住史、植民地支配以前の周辺民族との競合、 動物観、邪悪なチンパンジー?)→山越2009b
・近代的保全理念(保護区制度、MAB、世界遺産、森林イメージに関するロー カル/グローバルの相克) →山越2006
・研究者(われわれ、京大プロジェクト、森林拡大への圧力団体、チンパンジー の直接観察、勤勉、植林プロジェクト、フランス語ができない、チンパンジーの 「命名権」、急激な規模拡大、チンパンジーへの悪影響)→山越2006
・調査アシスタント(「結社」?、外来者へのローカルな対応、直接観察による チンパンジー観の変化、チンパンジーに関する既得権)

Boesch, C. 1991. The effects of leopard predation on grouping patterns in forest chimpanzees. Behaviour, 117: 220.242.
Lehmann, J. Boesch C. (2005) Bisexually bonded ranging in chimpanzees (Pan troglodytes verus). Behav Ecol Sociobiol 57:525-535.
Sugiyama Y. 1988. Grooming interactions among adult chimpanzees at Bossou, Guinea, with special reference to social structure. International Journal of Primatology, 9: 393.407.
Wrangham RW 1986 Ecology and social relationships in two species of chimpanzees. In: Rubenstein DI, Wrangham RW (Eds) Ecological aspects of social evolution: Birds and mammals. Princeton University Press, Princeton, pp 352-378
Wrangham, R. W., 1975. The behavioral ecology of chimpanzees in Gombe National Park, Tanzania, Ph. D. thesis, University of Cambridge.
Yamakoshi, G. 1998 Dietary responses to fruit scarcity of wild chimpanzees at Bossou, Guinea: Possible implications for ecological importance of tool use. American Journal of Physical Anthropology, 106(3): 283-295.
Yamakoshi, G 2004 Food Seasonality and Socioecology in Pan: Are West African Chimpanzees Another Bonobo? African Study Monographs, 25: 45-60.
Yamakoshi G. in press. The “prehistory” before 1976: Looking back on three decades of research on Bossou chimpanzees. In: The Chimpanzees of Bossou and Nimba: A Cultural Primatology (T. Matsuzawa ed.). Springer-Verlag Tokyo, Tokyo,.
山越言. (1999) 「“神聖な森”のチンパンジー:ギニア・ボッソウにおける人との共存」 エコソフィア 3: 106-117.
山越言(2003)「ギニアの森の成り立ち: 景観に埋め込まれた生態史を読む」アジア・アフリカ地域研究3: 237-248.
山越言(2006)「野生チンパンジーとの共存を支える在来知に基づいた保全モデル−ギニア・ボッソウ村における住民運動の事例から−」『環境社会学研究』12 : 120-135.
山越言(2009a)「ギニア南部森林地域における村落林の生態史―ドーナツ状森林の機能と成因」 池谷和信編『地球環境史からの問い』岩波書店、東京、pp 208-16.
山越言(2009b)「野生動物とともに暮らす知恵: 西アフリカ農村の動物観とチンパンジー保全」 ヒトと動物の関係学会誌23: 22-26.