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研究会報告

2010年度第2回(通算第8回)研究会

内容の要旨:
1)「継承されるシステムの一つとしての制度―動物から制度を考える」(中村美知夫)
 動物/人間という二項対立は、いまだにヒト以外の動物を対象にする研究者、人間を対象にする研究者のいずれにも、暗黙のうちに強い影響力を与えている。本発表では、なるべくこのような二項対立に陥らない形で、ヒト以外の動物に制度がありうるのかについて検討する。一般的に、制度には個体の自由を束縛し社会を維持するという「厳しい」イメージがついて回る。この場合、「厳しさ」は禁止(〜してはならない)・命令(〜せねばならない)という形で表象されることが多い。しかし日常的には、私たちはこうした「厳しさ」を必ずしも意識しないで制度に従っていることはあるし、言語的に明確に指示されない場合でも制度は社会的に継承されていく。このような、非明示的かつ「ゆるやかな」ものであればヒト以外の動物に制度を考えることが可能であろう。それは、なんらの禁止や命令なしに、社会的に世代を経て継承されるシステムである。それはもはや制度というよりも私たちが慣習と呼ぶものや、今西錦司がカルチュアと呼んだものと酷似してくる。
 今西が考えたカルチュアとは、本能と対置されるもので、集団生活をすることによって集団の成員の間に共有されている生活様式とでもいったものである。こうしたカルチュアは、必ずしも集団間で異なる必然性はないものの、人間の観察者が見る際には、集団間で違いが存在することはカルチュアが存在する強い傍証となる。この今西のカルチュアの概念から半世紀以上が経った今、ヒト以外の動物にも地域間でさまざまな行動パターンの違いがあることが知られている。それらの多くは道具使用に関するものが中心であり、知性に裏打ちされた複雑な採食技術という文脈で機能主義的に議論されることがほとんどである。しかしながら、実際にはそうした道具使用以外にも社会的に継承される行動パターンは存在し、そうしたものの多くは機能主義的には説明がつかない。こうした行動パターンがどの程度存在するのか、また社会的な相互交渉の中でどのように再生産され継承されていくのかを記述していくことは、「ゆるやかな」形での制度がヒト以外の動物でどのように成立しうるのかを知る上でも重要な作業であると思われる。
 本発表では、現在までに私たちが明らかにしてきた野生チンパンジーの地域間での行動変異のうち、環境要因や行動の効率化といったことでは単純に説明しにくいもの(すなわち「皆がやるからやる」という以外に違いの説明が難しいもの)のいくつかを紹介する。
 日常的に集団生活をおこなう動物(ヒトも含む)にとって、他個体との相互交渉は常に不確定性を孕んでしまう。そこではおそらく、個体や遺伝子の利害を超えて、集団として継承するようなシステムが不可避的に生じる。そこには禁止も命令もないが、個体にとってはそれに沿って行動することが当たり前となっていくのではないだろうか。

2)「コミュニケーションにおける制度的規則の役割と限界」(水谷雅彦)
 「制度」をコミュニケーション理論の観点から考えてみたい。まずその際に導きの糸となるのは、後期ウィトゲンシュタインの解釈である。制度を規則の集合体と考えた場合、ウィトゲンシュタインの「<規則>という語の用法と<同じ>という語の用法は互いに織り合わされている。」(Philosophische Untersuchungen,、§225)、「たった一人の人間がたった一度だけ或る規則に従っていたということはありえない」(同、199)、「ひとは規則に<私的>に従うことはできない。」(同、202)といった命題群の解釈が問題になるのである。
 たとえばサールの構成的規則の体系としての制度という考えは、言語ゲームの諸規則の集合としての生活形式というウィトゲンシュタインの概念を思い出させるが、オースティンの慣習(規約)概念を規則とよびかえた場合にそうであったのと同様に、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム概念がもっていたある種の微妙さ、特にウィトゲンシュタインの母語で表現された場合のSprachspiel(言語-遊戯)がもつ精妙さが失われてしまうという点が指摘できよう。ウィトゲンシュタインの言語ゲームには一義的な目的など設定不能であり、だからこそSpielなのだともいえるが、サールが好んでとりあげる例は、チェスであったりフットボールであったり、勝利という敵味方双方に共有された一義的な目標(E・ゴフマン流にいえば「支配的かつ主要な関与」)の存在するゲームであった。しかし、われわれの日常的なコミュニケーションは、そのようなものではない。
 「制度化」以前のより基底的なコミュニケーションのありかたに注目した哲学者としては、ヒュームをあげることができる。とりわけ、制度の基礎にあるを成立させるものとしての「会話」の意味を強調した点は重要である。他に、G. Simmelの、B. Malinowskiの、M. Oakeshottのなどの概念が、興味深い論点を提出している。また、会話そのものの成立の可能性の根拠については、D. Davidsonのが重要な理論的見解を示している。
 会話を通じて制度が成立するというヒューム以来の発想を推し進めたのが、Hayekのである。ハイエクは、ひとつの制度が存在するということは、ある意図によって意識的にそれが創造されたものとする立場を「設計主義」として退けつつ、人間が成功するのは、自分が守っている規則がなぜ守られるべきであるかという理由を知っている、あるいは言葉で言明できるからではないという。ここで重要なのは、人間の必然的で修復不可能な「無知」ということである。われわれは、この無知に対処するための方策として規則を利用するのである。しかし、ハイエクは、この制度の成立を(群淘汰概念に基づいて)「進化論」的に解釈する。その妥当性については議論の余地があろう。

3)「コーバリス『言葉は身振りから進化した』を読む」(亀井伸孝)
■はじめに
 「制度は言語のうえに成立する」という前提を問い直すという本研究会の趣旨をふまえたとき、「人類進化の中で制度がいかに生じたか」と並行して、「人類進化の中で言語がいかに生じたか」を問うことは重要である。しかし、言語の進化を、私たちは正しく考察しようとしてきただろうか。
 背景的な関心として、言語の起源を論じるとき、なぜ発声機能の進化にばかり関心が寄せられるのであろうか、という疑問がある。「人類の直立二足歩行によって喉頭が下がり、声道の変形が可能になり、多様な音声を発することができるようになって、言語が生じ…」というストーリーがある。しかし、言語が成立するにおいて、音声は必要条件ではない。手話言語の存在を見れば、それは明らかであろう。
 ところが、手話言語学と進化論は、なかなかかみ合ってこなかった背景がある。第一の要因は、音声言語中心主義である。言語の研究者の多くは、「言語は音声である」という観念にとらわれ、手話について無関心または軽視の姿勢をとることが多かった。第二の要因は、ろう者コミュニティにおける霊長類の手話習得実験への反感である。霊長類を利用して手話に対するネガティブキャンペーンが行われた歴史もあり、反感をぬぐいさることは容易ではない。
 本書は、手話言語を正当に人類進化論の中に位置づけようとする労作である。書評を通じて、新しい言語進化論の構築のための手がかりを得たい。

■書誌情報
コーバリス, マイケル. 2002=2008. 大久保街亜訳『言葉は身振りから進化した: 進化心理学が探る言語の起源』東京: 勁草書房.
(Corballis, Michael C. 2002. From hand to mouth: The origin of language. Princeton, NJ: Princeton University Press.)

■本書の概要と論点
 音声中心の言語起源論が、しばしば動物の鳴き声や歌にルーツを求めようとするのに対し、本書は、人間の言語は手指を用いた視覚的ジェスチャーに起源するとの仮説を提示する。霊長類学、手話言語学の成果などを取り入れつつそれを主張するとともに、なぜ音声言語が結果的に優勢なコミュニケーションとなるにいたったかの回答を与えようとする。
 全10章で描かれた本書のストーリーをまとめると、以下の通りとなる。まず、約200万年かけて、脳のサイズの増大とともに、人類(ホモ属)は文法をそなえたジェスチャー言語(手話にいくぶんかの音声ジェスチャーを伴う)を話すようになった。数万年前、声道や咀嚼筋、左右の脳機能の局在などのほかの条件を獲得したことも重なって、ヒトの一集団が文化としての音声言語(原世界語)を発明した。それにより、手がコミュニケーションから解放され、道具文化と知識が複雑化をとげ、ほかの人類種を滅亡させながら、音声言語集団が世界を席巻した。
 ジェスチャーが音声言語に先行したと考える主要な理由として、霊長類において視覚的なコミュニケーションが広範に見られること、ろう者が視覚的な自然言語である手話を話していること、諸音声言語のルーツである原世界語の歴史が数万年と浅いこと、原世界語の誕生が道具や芸術の発達、ヒトの諸大陸への拡散と重なることなどを挙げている。
 霊長類の言語能力の評価、人間の行動や視覚コミュニケーションなどについては、新しい知見に基づいて資料を集めており、説得力がある。一方、手話言語学・ろう文化の理解については、かなり勉強しているものの、若干の誤認が含まれる。明言はしないものの、「音声言語が最終到達段階である」という進化主義的なシナリオの残滓が見える。また、すべての音声言語のルーツとなった「原世界語」の存在を仮定しているが、その妥当性も気になるところである。

■雑感
 「言語の進化=音声言語の獲得=動物の音声コミュニケーションから起源」という、音声言語中心主義の呪縛を打ち破る好著である。また、多くの分野の成果を渉猟した著者の博識さには、脱帽せざるをえない。脱線やことば遊びも多く、魅力的な授業を受けているような心地よさがある。訳文も、とても読みやすい。
 しかし、冒頭に述べたような「隠れ音声言語中心主義」であることは否めない。「ジェスチャーは難しい」「音声言語が勝利した」など、手話言語の話者であれば実感として書かないであろう言い回しが目についた。手話話者の側に共感しつつ本書を読むと、手話をヒト以外の動物や初期人類の方へと寄せ付けようとする、有形無形の圧力が感じられる。
 この気宇壮大な仮説が、手話言語学に通暁し、自ら手話話者であるろう者らの手によって救い出される日は来るだろうか。いち人類学徒としてそれを期待したいが、まずは手話言語学と進化論の間に横たわる不幸な溝の解消という地道な作業から始めねばならないだろう。

■文献
亀井伸孝. 2009.『手話の世界を訪ねよう』(岩波ジュニア新書) 東京: 岩波書店.