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研究会報告

2010年度第3回(通算第9回)研究会

内容の要旨
1)「ニッチ理論と動物の社会性」(足立薫)
■ニッチとは
 ニッチは生態的地位とも訳され、生息場所やえさなど、生物が生きていくのに必要不可欠な環境の要素を指している。ニッチは競争と深く結びついた概念であり、同じニッチを占める異種の生物は共存できないという、競争排除原則がよく知られている。
 ニッチとは、生物と環境の関わり合い方を表す概念である。環境から生物への働きかけを重視してニッチを構想したのが、ハッチンソンやマッカーサーなどである。このようなニッチを「環境的ニッチ概念」と呼ぶことができる。環境的ニッチの考えに立てば、現在、どのような生物によっても利用されていない(将来なにかの生物が利用することになるであろう)「空きニッチ」を想定することができる。このような考え方は、心理学と結びついて、ギブソンらによる生態学的心理学へ発展することになる。それに対して、生物から環境への働きかけを重視する立場は、エルトンによる「機能的ニッチ概念」にみられる。エルトンは生物群集communityにおけるそれぞれの種の「役割」を想定し、それをニッチという言葉で説明する。
 このようにニッチ概念にはさまざまなとらえ方があり、厳密に何を指しているのかは生態学の内部でも少しずつ異なっている。「ニッチ」の曖昧さの要因にはさまざまな側面があるが、生物=環境関係から考えたときにもっとも問題になるのは、それがどのレベルでの現象を問題にしているのかということである。ニッチに関する現象は、個体・種・個体群・群集といった、生物集団の異なるレベルのそれぞれに現れる。また、空間的、時間的な広がりも、観察対象によってさまざまである。

■混群におけるニッチ
 オナガザル類の混群は、採食食物の種類に重複が大きく、また生息場所もほとんど同じであり、ニッチの類似度が大きいものどうしで形成されている。人類社会の進化史的基盤(1)では、オナガザル類の混群現象をオートポイエーシス・システムとして捉える試みを行った。混群では採食コミュニケーションの作動が連続的に起こり、採食の連続がシステムの境界を決めていく。採食行動がコミュニケーションとなるのは、彼らが「似て非なる」採食食物を利用しているからである。ニッチ重複が大きいサルどうしの混群では、ある種の個体の採食行動が同じものを食べる可能性のある他種の行動に、社会的な影響を及ぼす。採食行動の繰り返しによって、混群の社会システムの輪郭が形成されていると考えられる。
 この「繰り返し」作動がおこることが実現するためには、時間が必要である。ある程度の時間が流れて、その間に連続的に起こった作動を集積していくと、社会のありようがぼんやりと見えてくる。混群の観察者がそこで行うのは、瞬間ごとに観察したデータをプールしてあとから振り返ってそれを眺めることである。そのようにして採食コミュニケーションのプールされたデータから取り出されるものが「ニッチ」に他ならない。
 タイの混群を上記のような方法でみたとき、ダイアナモンキーは果実食者というニッチを占める。混群という社会の個々の採食活動の場面で起こる「今ここ」のコミュニケーションと、果実食者というニッチの間には、社会の二つの側面が現れている。

■新しいニッチ理論
 ニッチ概念を、社会を理解するための道具とするためには、新しいニッチ理論が必要である。生物=環境関係をどのように捉えるか、ニッチに関わる時間の問題をどのように定式化するか、といった問題点が重要になるだろう。以下のような二つの新しい理論が、新しい視点を提供する可能性がある。

ZNGI(Zero Net Growth Isocline)のニッチ理論
 生物から環境への働きかけと環境から生物への働きかけの両方を考慮して、ニッチを理論化する試みである。環境からの働きかけをsupply vector、生物からの働きかけをimpact vectorとして、ニッチを構成する重要な要素をベクトルとしてモデルに組み込んでいる。
ここで想定されている環境は資源や捕食者のみだが、さらに拡張して同種・異種他個体を環境とできないだろうか。ただし、定量的なモデル化を手法としてサルやヒトで実証的に研究するのは困難であるという問題がある。このようなアイディアをどのように実際の研究に組み込むかが課題となる。

ニッチ構築
 LalandやSmeeらによって提唱されている、ニッチ構築は新しい進化理論として注目されている。
 生物が環境に働きかけることによって、環境が改変される。この改変された環境が、生物の進化の舞台となる。このアイディアは、今西の生活形のアイディアとも共通する。ニッチ構築は、理論的には遺伝子-文化共進化論のひとつである。


2)「「なにをやっても間違いばかり」:他者をめぐる欲望とモラリティ」(青木恵理子)
1. なぜモラリティに焦点をあてるか
1.1.「制度」との関係
①人類学における制度研究
暗黙の前提:主知主義や認識論の中心化、分節化・カテゴリー・表象・言語への注目。
②人類学におけるモラリティ研究
中心的に取り上げられてこなかった。上記前提の回避可能。
③モラリティは制度と深く関係
モラリティは、関係や関係志向性に宿り、個人と集合的主体である制度を結ぶ。制度に制度としての形を与え、個々人を社会(性)へと方向付ける。制度・社会を変革させる可能性孕む。
1.2.モラリティという視点
①モラリティの文化固有・文化内複数性・脈絡依存
②人類共通の関係志向性に関わる
 モラリティは、自己を構成すると同時に世界内行為へと方向付ける。私たちの自然なモラル感覚は、常に自モラル中心的でありがちだが、他との関係を志向させる社会性の基盤。
③反復される経験
モラリティ実践は、規則遵守行為ではない。当為と願望など、異なる水準が、絶え間なく相互作用しあうような経験 。包含されたさまざまなパラドクスは、その経験を「一般性」ではなく、絶え間ない「反復」として実現。
1.3.「制度研」に即して
「種中心的」見方を回避し、制度や社会性の問題を、全体性と個の身体経験の次元にひきつけ、霊長目の動物その他との比較可能性、相互関連性、共感性を通して、「進化論」的考察を可能にする。
 表象能力・記号性は、人間の経験形式とsocialityに関して大きな変容をもたらしたが、それを価値あるものと位置づけるのは、「暗い聖痕」を負った唯一の種(今村2006: 3)という「苦難の思考」(黒田1999:31)同様、「種中心的」見方。

2.フローレス中部山岳地域におけるモラリティ
2.1.K.村とW.村の民族誌的概要 
K村 W村 備考
言語 Ende語 Lio語 類縁性高い
生業とその変容 ・ 自給食物生産の焼畑、ココ椰子栽培、家畜飼育
・ 1990年前後から商品作物(焼畑の極端な衰退)、出稼ぎ
・ 伝統の商品化・メディア化なし
・ 行政村長以上の輩出なし ・ 水田:1930年代導入、60年代拡大、焼畑縮小
・ 1990年前後から商品作物(水田重要、焼畑消滅)、出稼ぎ
・ 伝統の商品化・メディア化
・ 県局長2名・県会議員1名輩出

2.2. フィールドワークの当為と願望
1979年以来、フィールドワーク。約30年の私自身のモラリティ実践は、彼らの経験に対するより深い理解へと私を導いた。表象能力・記号性、他とへの志向性、社会的なるものが、人々の生活のなかで、どのように駆動し合っているかが照らし出された。
2.3.両地域のモラリティ実践の焦点
共通要素は多いが、K村地域の人々の最大の関心事は姻戚間の贈与をめぐる面目と配慮であり、W村の人々のそれは儀礼村とその儀礼をめぐる権威と力である。それぞれの生活世界、肌合い異なる。
2.3.1.K村地域における姻戚間贈与とその変容
出稼ぎと商品作物による定期的現金収入を投入して、季節に関係なく、かつてより多くの財と時間を結婚の贈与と婚資交渉と宴に費やす。嘆きながらも、義務を果たしたことで満足感。モラリティ実践の当為と願望が、人々の生活を息づかせている。
2.3.2.W村における儀礼村と儀礼とその変容
多くの「儀礼家屋」新築。国民文化・観光資源として「伝統文化」刷新・強化。行政資金が、地方行政に影響力を持つW村出身者たちにより流入。人々の権威に関わる儀礼の遂行は、正統な儀礼のやり方と儀礼役割の継承を現実化し、人々を駆り立てるモラリティ実践。人々をより熱くするモラリティ実践は、儀礼村と儀礼村に関する正しさに関する「本当の話」を語ること。
2.3.3.「なにをやっても間違いばかり」
 この30年間、それぞれ地域のモラリティ実践は内容変化を伴いながら人々を活気付けてきたが、そこで当為かつ願望とされる原則はどの時代でも実行不可能。(例:①K村地域:集めることが不可能な財の支払いが原則。②W村:儀礼リーダーの背反的継承規則並存。事態に一度決着が付いたら蒸し返してはいけないという規範と「本当の話」で正統性を争うという規範の並存。)人々は、モラル実践に夢中になりながら、時々嘆息。「なにをやっても間違いばかり」。
言語によって可能になる矛盾する諸原則の並存により、人々は休むことなくモラリティ実践に励み、喜怒哀楽を分かち合う。表象化能力をつかって実現不可能な目標を設定し、絶え間なく他との関係を志向し、身体的な共感生成。

参考文献
Howell, Signe ed. 1997 The Ethnography of Moralities, London and New York: Routledge.
今村仁司2006「社会空間の概念」西井・田辺編『社会空間の人類学』AA研
黒田末寿 1999『人類進化再考:社会生成の考古学』以文社
Zigon, Jarrett 2008 Morality: An Anthropological Perspective, Oxford and New York: Berg.


3)「狩猟採集民における教育と半制度─社会なき社会の制度なき教育」(寺嶋秀明)
■はじめに
 前回の発表では自然と制度のはざまに存在するさまざまな<半制度>について考えた。<半制度>は自然から文化への第一歩であるが,同時に<制度>の現実の姿でもある。<制度>はつねに自然からの引力にさらされており,否応なく自然へ一歩,歩み寄らなければならない。本稿では,近代化以前の人間社会,とくに狩猟採集民にみられる学習および教育における<制度>の問題について考察をおこなう。

■学習 learning
 学習という行為自体は,その内容を度外視するならば,哺乳類や鳥類は言うにおよばず,系統的にごく原始的な動物にも見られる行動である。もっとも学習の様態は動物種においてさまざまであり,一般に進化の系統にそってより高度な内容をもつようになる。一方,教育の方は,人を唯一の例外として,ほとんどの動物には見られない。学習は単独生活を営む個体であっても可能であるが,教育は「教える者」と「教わる者」がいてはじめて成り立つ相互行為である。その意味で教育は社会的行為であり,それも人間においてはじめて出現したものである。
 人にもっとも近い動物であるチンパンジーでは,他者の行為の目的・結果を模倣するいわゆるエミュレーション学習が発達している。チンパンジーの子どもは母親がアリ釣りをするところを観察し,そのうち自分でも試みるようになる。ただし,模倣されるのは「アリを釣る」という目的・結果であって,「どうやって釣るか」という方法ではない。後者に関しては,それぞれの個体が試行錯誤によって学習するのだという。チンパンジーが見せるさまざまな生業上の技術はすべて,彼らが自然に備えている動作であるゆえ,試行錯誤的にトライしてもその習得にはさほど大きな困難はない(プレマック 2005)。
 一方,人の場合には,行為の目的や結果はもちろん,手本となる者の方法・動作をその内容にかかわらず逐一,生真面目に模倣する。これを「真の」模倣学習と呼ぶ場合もある。模倣学習は,人間社会の特徴である文化の世代間継承のみならず,文化の発展には欠かせない。いわば人間社会の要諦をなしている。
 
■教示 teaching
 先代の文化を継承したり,さらに発展させるには上記の模倣学習が効果的であるが,人の場合には個体による学習のみならず,他者からの教示や手助けが重要な手段として加わる。教えることは時として個体独自の学習よりも,はるかに手早く効率的に文化の継承を可能にする。さまざまな知識や技術が人から人へ,さまざまなチャンネル(親から子,年長者から年少者,教師から生徒,など)を経て伝えられてゆく(Tomasello 1999)。
 人以外の動物では,たとえ親子間であっても何かを教えるということはまったくないといわれる(Premack & Premack 1994)。親から継承すべきことは,上記のチンパンジーのように子どもが単独で学べるようになっているのである。一見教育的に見える行為であっても,人間の教育的行為とは根本的なちがいがあるようだ。ではいったい人は何を教え,何を学ぶのであろうか。子どもに何かを教えるという場合,従来言われてきたのは,その社会で一人前の人間として生きるために必要なさまざまな知識と行動様式である。そのようなプロセスは一般に社会化 (socialization)と呼ばれてきた。
 教えることそのものは,どの社会でも見られることだが,近代化以降の社会では学校という制度がその中心となってきた。学校では「教えること」および「教えられること」が一定の様式に則って,一定のゴールを目指して強制的におこなわれる。それが教育 (pedagogy) である。教育によって人は知識や技術を学ぶのだが,何にもまして学ばなければならないのは,社会が認知する価値観にほかならない。しかし,社会の価値観はしばしば個人の性向に反し,拘束として立ち現れる。すなわち人は自らを拘束するものを学ぶことになる。制度としての教育は,このようにして個人にとっては根本的な自己撞着をはらみながら,それ自身を再生産するのである。

■狩猟採集民における学習と教示
 教えることに付随する強制や拘束は,学校にかぎらず,さまざまな教示の場面において見られることである。ただし,そのような事態をすべての社会がすすんで受け入れているというわけではない。その一つが狩猟採集社会である。そこでは拘束としての教育は見られない。
 Tim Ingold (1999)は狩猟採集社会を「社会なき社会」であるとした。一般に社会は個人に対立し,個人を拘束する制度の総体として存在すると考えられるが,そのような拘束や制度とは無縁の社会という意味である。他人から束縛されることは狩猟採集民がもっともきらうことであり,そしてまた,他人を強制することも極力避けられる (Woodburn 1982; 北村 1996)。
 個人の自立 (autonomy) こそが狩猟採集社会の最大の価値観である。もっとも,その自立とは,自己と他者を対立させて考える西欧的な個人主義に立脚したものではなく,他人に依存し他人に依存されるという相互的関係の維持によって達成されるものである (Myers 1986)。人は他の人々とのつながりの中にしか生きられないということだ。
 このような社会における学習と教示はどのような姿をとるのか。これまでの知見では狩猟採集民では直接教えることはないとされてきた。たしかに大人に対してはもちろんのこと,子どもに対してもあからさまな教示はほとんどない。教示=命令=拘束という関係があるからである。ではいったい子どもは,どこでどのように学び,教えられるのであろうか。狩猟採集民はどのようにして文化の継承と発展をおこなっているのであろうか。

■<半制度>としての教育
 一般に狩猟採集民の子どもは単独歩行が可能になると母親から徐々に離れ,子ども集団に加わるようになる。そして,ほどなく一日の大半を他の子どもたちと「遊び」をメインとした活動をしながらいっしょに過ごすようになる。そこで,そのような集団を「遊び集団」とも呼ぶこともある。
 今考えられているのは,そのような遊び集団において学習と教示がおこなわれているのではないかということである。ここで一つのポイントは,「遊びをとおして」という点である。遊びも多くの動物にふつうに見られる現象であるが,人間の遊びは,他の動物との共通性を土台にしながら,きわめて人間的な独特の特徴を発展させている。歴史・文化史家のホイジンガ (1973) が述べたように,人類の文化のすべてに遊び的なものが含まれ,重要な役割を果たしている。
 遊びの根本的な性質として対等性・平等性があることはつとに指摘されている(カイヨワ 1973)。ここに狩猟採集民における遊びと学習・教示との接点が見つかるならば,それは「非制度的な教育」としての可能性を示唆する非常に興味深いものであろう。
 教育は制度として権力的な拘束力をもち,社会の価値観を伝達継承させる。一方,狩猟採集社会においてはそのような権力的システムはきびしく排除されている。しかし,狩猟採集社会においても教えることは重要な問題であるはずだ。その落としどころは「非制度的な教育」であり,いわば「教えずして教えること」の実践であろう。今後,さまざまな角度から裏付けをおこなっていかなければならないが,<半制度>としての教育の姿について追求し,その中から制度の進化について論じてゆきたい。

文献

ホイジンガ, J. 1973『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳)中央公論社
Ingold, T. 1999 On the social relations of the hunter-gatherer band. In: Lee, R. B. and Daly, R. (eds.) The Cambridge Encyclopedia of Hunters and Gatherers. pp. 399-410, Cambridge Up.
カイヨワ, R. 1973『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫訳)講談社
北村光二 1996「「平等主義社会」というノスタルジア―ブッシュマンは平等主義者じゃない」『アフリカ研究』48: 19-34.
Myers, F. R. 1986 Pintupi Country, Pintupi Self. Univ. of California Press.
Premack, A. & Premack, D. 1994. Why animals have neither culture nore history? In: T. Ingold (ed.) Companion Encyclopedia of Anthropology: Humanity, Culture and Social Life. Routledge, London, pp. 350-365.
プレマック, D. & プレマック, A. 2005『心の発生と進化─チンパンジー, 赤ちゃん, ヒト』(鈴木光太郎訳) 新曜社
Tomasello, M. 1999 The Cultural Origins of Human Cognition. Cambridge, MA:Harvard Univ. Pr.
Woodburn, J. 1982 Egalitarian Societies. Man ( N. S.) 17: 431-51.