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研究会報告

2009年度第1回研究会

日時:2009年4月11日(土)13時~19時
場所:AA研小会議室(302)
内容:
(1)本プロジェクトの指針と展望(河合香吏・AA研)
(2)各学問領域における「制度」
①霊長類学における「制度」(黒田末壽・AA研共同研究員/滋賀県立大学)
②生態人類学における「制度」(寺嶋秀明・AA研共同研究員/神戸学院大学)
③社会人類学における「制度」(椎野若菜・AA研)

内容の要旨:
(1)本プロジェクトの指針と展望(河合香吏)
 人類は生物分類学的には霊長目に属し、進化史的にはごく最近までチンパンジーやボノボといった大型類人猿とともに進化の過程を歩んできた。したがって、人類の社会性(sociality)の基盤はこれらヒト以外の霊長類との連続性と非連続性を検討することによってこそ、より深淵で明解な人類学的理解が可能となるはずである。こうした前提から、本プロジェクトは、長期的プロジェクトとして開始された「人類社会の進化史的基盤研究」の、今年度に終了する第一弾のテーマ「集団」に続く第2弾として「制度」をとりあげるものである。 とくに「制度は言語のうえに成立する」という一般に当然と思われている命題にたいして、音声言語をもたないヒト以外の霊長類に「社会」を認め、社会構造論や家族起原論を展開してきた霊長類学の知見や理論によってこれを相対化する。そのうえで、当該社会の成員の行為・行動のなかに「制度」の前駆的なありようをみとめ、言語を前提としない制度の可能性とその進化史的基盤を追究する。ヒト以外の霊長類における「集団」には平等原理、不平等原理など社会集団を成立させている種々の共存のための原理が存在する。あるいは、現実に同種個体によって構成される「集団」が外から見えるかたちで存在しているという事実が、そこに共存のための何らかの原理が働いていることを示唆する。一方、人間の社会においては、共同性、共存性を担保するさまざまな規則や制度、そしてそれらを具現化する相互行為が存在する。
 本プロジェクトは、上記の諸事実にもとづいて、同種個体の共存のための原理として「制度」をとらえ直すとともに、「制度は言語のうえに成立する」という「制度」の言語起源論にたいして、社会集団の構成員間に発現する相互行為や行動の観察事実のなかに、ある種の「規範」がささえる「制度」の萌芽的ありようをみとめることによって、この命題を相対化し、「制度」なるものの生成過程を人類進化史のなかに位置づけることを目的とする。
 本プロジェクトは、霊長類学者と人類学者およびその隣接分野の研究者による共同研究である。構成メンバーの専門領域は、文化・社会人類学、生態人類学、環境人類学、民族学、霊長類生態学、霊長類社会学、生物科学史・科学論、人類進化論、コミュニケーション論など極めて多様である。これらのメンバーは、そのほとんどが「集団」をテーマとした前プロジェクト(以下、「集団」研究会)において共同研究を実施してきており、「集団」という視点から人類社会の進化に関する諸分野の知見と理論をすでに共有している。そうした背景をもとに、上記のさまざまな領域から「制度」を進化史上に位置づけること、そしてそれがサルからヒトへの進化過程において決定的な閾である可能性を検討するといった試みはこれまでにほとんどなされたことはなく、人間性の理解のための強力な方法論となりうるものであるといってよい。それは同時に、「制度」なるものの概念とその生成過程をとらえ直すことにもなりうるはずである。
 かつては同じアリーナで人間性について議論し、人類社会の進化過程の理論化が進められてきた霊長類学と人類学は、内外を問わず、前者は行動生態学や社会生物学として、後者は文化学や地域研究として、おのおの個別の領域における専門性を強めてきた。そのため、ヒトとサルとの接点、霊長類社会と人類社会を継ぐものを積極的に模索することによって人間性に関する理論をうちたてようとする姿勢は希薄になっている。本プロジェクトは、上記のようなさまざまな学問分野において臨地調査にもとづく実証的な研究してきたメンバーによって構成されている。それはまた、個別研究を「制度」というテーマのもとにとらえなおし、共同研究会の場において議論し、検討するといった共同研究を通じて、人類社会の進化史的基盤を明らかにすることを目指すものである。こうした共同研究を通じて、いまいちど、人間性についてのより広くより深い理解へむけて根源的な理論が展開されてゆくことが期待できる。
 本研究プロジェクトにおいて議論され、共有されてゆくであろう「制度」という事象の特質にふれておく。まず第一に、それは、言語を前提とする制度、すなわち言語によって規制範囲が明確ないし厳格になっているようなものに限らず、むしろ慣習に近いものが想定される。それは、だが一方では、自己および同一集団の他のメンバーに対する規制として現れる性格をもつ。本研究プロジェクトのメンバーである黒田末寿はこれらの特質をもつ「制度」を<自然制度>と呼び、これを法制度ではない諸制度、すなわち文化として各人の心に育つ規範が支える制度であるとする。それはまた、日常行為の中の規範であり、生きた秩序であり、さらに規範は懲罰より根源的であるとする。こうした視点は本研究プロジェクトにおいても継承される。それは、たとえば、人類社会に普遍的な「家族」という「制度」の生成や、行為としてのインセスト・アヴォイダンスと「制度」としてのインセスト・タブーの関係などについて、「集団」研究会においては個体間ないし集団間相互にあらわれる具体的な行為の側面からあつかわれてきたのに対し、本研究プロジェクトでは行為論に特化せず、制度論としての側面からこれらの社会的事象をとらえ直すことになろう。

(2)各学問領域における「制度」
①霊長類学における「制度」
霊長類学からの制度:アキレウスが亀をまたぐための情動の役割(黒田末壽)
 ——もし制度に霊長類学が手も足もでないのなら、今西(錦司)が人間社会の進化の解明を目指した構想した霊長類学も夢想だったことになる。今西本人もまた「結局、サルなんかやっていても人間のことはわかりませんな…」とまで言っている。

1.今西錦司の家族起原論(1961)と制度
 今西による家族の4条件とは、1)インセスト・タブー、2)エクソガミー、3)コミュニティ、4)性的分業であった。今西は1)と2)は制度、3)は制度があるために必要条件の一つと言っている。4)の制度性については言及していないが、性的分業はある程度の拘束力を持つという意味で制度的である。つまり、家族は複合的な制度である。だが、今西を含め、制度を問題として意識している霊長類学者はほとんどいないのが現状である。河合雅雄は「制度の起源となると、(霊長類学は)お手上げ…」ともらしているが、この嘆息には、制度には言語が必要であるという前提が働いている。また、今西も家族制度の成立について述べる際に、同様に「制度という以上、このときすでに言語が用いられていなければならない」とし、「どのお父さんとどの娘さんといったような具体的個別的なものではなくて、父と娘である以上はせい関係を持ってはならない」というように、抽象化や一般化が行われ、それが言語によって表現され、伝達されなければならない」と、制度には言語が必要であるとして、思考停止している。だが、このような制度のイメージは実定法や「おきて」概念に縛られすぎではないか?つまり、制度の一歩手前、すなわち制度の先行型といったものがありうるのかどうかを考える必要がある。いいかえれば、その際には言語をできるかぎり排除して考えるということである。

2.制度や規則の一歩手前———遊びと食物分配
 遊びは相手とのやりとりの定型的調整をおこないながらやるということで、持たない者が持つ者に用心深く近寄るかたちに極めてよく似ている。しかし、これは制度のように他者の行為を自己のものと同じ評価をする、離した、かつ同一化する認識とは異なる。従って、制度の一歩手前の段階というべきものである。食物分配もまたこれと同様である。

3.情動と制度のありかた
 インセスト・タブーとインセスト・アヴォイダンスの違いは、後者は自ら避ける、結果的にみんなが避けるが、逸脱に対する反応が現れないのに対し、前者は自ら避けるとともに、他者も避けると思っており、かつ逸脱があってはならないことと評価されるものであり、自他の行動がともに評価対象になる。なお、逸脱に対する懲罰は必ずしも規定されていなくてもよい。
 つぎに情動の共有、すなわち、他者の行為が自己の行為のように感じられることについて、情動はそもそも社会的であり、かつ好悪の判断基準を構築するものである。H.ワロンは、情動は他者から受け取り自己内で拡大して他者に伝わること、情動の共有は価値判断の共有基盤となり、社会制度の基盤を構築するが、長じるに従って情動は理性的思考の下位におかれ社会の基盤であることが忘れられることを指摘している。そのほか、A.スミスは、人間は他者の視線を意識し、他者に「同感(sympathy)」したり、他者から「同感」を得られるように行動することを指摘する。また、脳科学者のJ.ルドーは情動に関する辺縁系が、性・生殖・社会化・哺乳・母性・父性行動・音声コミュニケーション・遊びに関与するとし、ヒトの辺縁系でとくに大きく発達し、情動と理性の共進化が起こっていることを指摘する。
 チンパンジーの情動の共有から人類祖先の情動が推測できるかという問題に関し、チンパンジーにおける恐怖とこれに対する「仲間」の励まし、一緒にいる者にさわるだけで安心するといった人間にも普遍的にみられる行動を示すことに着目する。危険にさらされているときには、一緒にいるだけで共同性が高まるのである。また、共同行動の結果の食物分配は、いわば「コミュニタス的分配」として気前よく平等性の高い分配が観察される。

4.自然制度−−−言語なしの制度の可能性 
 伊谷純一郎は制度の定義を「個体の行動に対する拘束力をもつ文化」とする。そして、言語によって行動や習慣の厳密な規定がもたらされ、そこから区分が招来されると言う。すなわち、ある規定に沿うことが、その規定を分有する社会集団の一員であるあかしになり、これに反する行動をとった個体には、集団からの排除や制裁がおこなわれることになる。この内容は「制度は、社会集団の成員に言語化されて分有される行動規制であり、社会的アイデンティティとしての機能を持ち、逸脱には社会的制裁が加えられるもの」と言いかえられる。このように、伊谷の制度はアイデンティティと言語が結合した者である。さらにいえば、「言語化が概念を明確にし、区分を招来する」という以上、言語こそがアイデンティティの源ということになり、制度が言語に帰着することになる。だが、言語もまたひとつの制度であるから、制度=制度のトートロジーが構成されてしまう。
言語を直接の前提にしない制度の定義を以下のように示す。
1)規則:ある集団の成員すべてが自己および他の成員が従うことを期待する事柄のそれぞれ。
2)規範:ある集団の成員すべてが自己および他の成員がある事柄に従うことを期待すること。
3)制度:持続的社会集団の規則。

5.逸脱
 最後に、人間の制度を作り上げている重要な要因としての逸脱についてふれておく。人間社会の制度は、本能のように働くし意識下におかれることもある。最もあからさまな制度は禁忌として現れるが、それは密かに審判への妖しい魅力に満ちた誘惑として現れるものである。制度のこのような多様で不可思議なところは、おそらくわれわれにその逸脱をも同時に見えてしまうことが原因になっているのだろう。しかし、制度は個人に先験的に現れるのに矛盾して、逸脱が可能な選択肢として一方に見えるからこそ、人間には自由意志と主体性が可能性として保証されるのである。

②生態人類学における「制度」
「半−制度」:生態人類学から見た制度へのアプローチ(寺嶋秀明)
 生態人類学は,自然の中に生きる人間という設定のもとで,人間の特質を探る学問である。自然と人間との具体的な関わりは,自然と文化とのせめぎ合いと捉えることができるだろう。そして,自然と文化にまたがるものが人間の活動であるとすると,自然の側に位置するのが環境であり,文化の側に位置するのが制度である。それはまた,環境=資源を使いながら,規則=制度に従って活動する人の暮らしという構図である。環境の諸要素としては,資源,土地,人口,気候,他集団などがあり,文化=制度の諸要素としては,親族組織,行政機構,法,規範,規則,財の再配分,信仰,宗教などがあり,それらにまたがる活動は,生業,医療,冠婚葬祭,交易や戦争,そして娯楽などに分類することができる。
 また,自然と文化とが相互に関わる度合いについて考えると,自然から文化へと伸びるベクトルを想定することができる。それは,社会の制度化,あるいは制度化された社会へと向かうベクトルである。すなわち,制度の進化ベクトルと見なすこともできよう。出発点には制度と無関係な自然状態があり,ベクトルの先端には完璧に制度化された社会を置かれるのである。完璧な制度=規則によって支配される社会は,たぶん地球上のどこにも存在しないにちがいない。また,まったく制度をもたない社会も存在しない。いかなる社会でも,制度と自然とのあいだに位置づけられる。
 半−制度について考えなければならない理由がここにある。制度化されながらも自然に根をおいたシステム,自然に密着しながらも,制度へ一歩踏み出したシステムである。これは,ヒト以外の霊長類から人間社会への進化論に関わる議論にも重要な意味をもつだろう。狩猟採集社会からいくつか例を挙げてみよう。
 まず,「所有」について考えてみたい。自然界では,いかなるものといえども,人間との関係でいえば,まずは「無主物」として存在する。一方,近代社会においては,「私の労働の結果,私が手に入れたものは私のもの」とするジョン・ロック以来の所有権という制度がある。しかし,狩猟採集社会では,たとえば,狩りの獲物の所有権とは,所有者が自由にそれを処理する権利ではなく,その獲物を「分配をする権利」とか(「分配しない権利」はない),その所有物の分与を「求められる権利」という形でしか存在しない。私のものは,たしかに私のものであるが,それはあなたのものでもある。そしてこれはシェアリングへとつながる問題である。
 つぎに,親族制度(キンシップ)について考えよう。自然界に生きるヒト以外の霊長類では,血縁という関係は生物学的関係として存在するが,父系制とか母系制という制度として存在するのではない。一方,人間社会では,親族制度は,父系,母系,双系,二重単系,あるいはキンドレッドなどの形をとり,近親間における個人と個人の関係を定め,相互の行動を規制するものとして機能している。しかし,それが制度としてどこまで人間関係を規制しているのかについては,いろいろと問題がある。狩猟採集民の居住集団であるバンドは,ラドクリフ=ブラウン以来の父系バンド説がある。それによると,バンドは父系の親族集団からなり,一定のテリトリーを保有し,侵略者に対して防衛行動をとるものとされてきた。しかし,実際の狩猟採集民のバンドでは,父系以外のさまざまな絆の人々が集まり,テリトリーは防衛するよりも,他のグループとシェアリングしあって生きるものとされている。父系という集団の認識はもちろんあるが,それがバンド成立のための制度として機能しているわけではない。結論を急げば,バンドは制度ではなく,絆からなる集団である。
 このほか,互酬制,階層制,社会構造などについても,実際の社会に見られるものは純粋形からは遠く,自然状態と制度とのあいだの「半−制度」として存在すると考えた方がよいことを論じた。なお,「自然」「半−制度」「制度」は,直線上に一列に並んで社会的進化の度合いを示すのではなく,「社会性」と「構造=制度化」の二軸からなる二次元平面に,三角形をなして布置されるものであることも論じた。すなわち,ものによっては,制度化の進展と社会性の進展は平行せず,むしろ反比例することも予測されるのである。

③社会人類学における「制度」
「制度」について、社会人類学から考える一事例(椎野若菜)
1.はじめに
 本研究会の特徴として、進化史的視点、超分野的視点をもって研究に携わる意図があげられよう。そして初回にあたって生じる疑問は、何をもって、「制度」といえるか、みなすか。そして、私の専門である人類学ではどうかということである。
 今後、3年間かけてとりくむ大きなテーマであるので、発表者のこれまでの主な人類学的関心に基づいて、また今後なにを考えていきたいか述べたいと思う。
 発表者はこれまで、人類学のなかでもとりわけ社会人類学という人間社会の社会組織に重きをおく分野で研究をすすめてきた。そしてフィールドである東アフリカ、ケニアのルオ村落社会においてはとくに夫を亡くし寡婦(ルオ語では「chiliel:墓の妻」)になった女性はどのように生きているのか、注目して調査研究を行なった。寡婦たちの生活実践をみるということは、もちろんのことルオ社会における結婚のありかた、一夫多妻という結婚形態、「レヴィレート」、「寡婦相続」について問うことであった。[椎野 2001,2003a,2003b,2008][椎野編 2007]

2.人間の性にかんする制度としての「結婚」を考える
1)配偶関係
まず、夫婦間の性を考える、とはどういうことだろうか。動物社会のオスとメスの場合をみると、配偶関係は多様である。なかでもセックスを行なう配偶関係が社会的な制度として機能しているのが人間社会である[長谷川 1997]。
人間社会には、どの社会も形態は多様であれ、結婚という制度があることは、これまでの人類学史をみてきても明らかである。結婚とは、人間が性に関して言葉で縛りを課し、人間の配偶パターンを支配することで社会構造のありかたを規定する社会制度である。動物とは異なる、人間を人間たらしめる制度だといえるだろう。
2)インセスト
その結婚という制度を人間がつくりだした要として、インセストが注目された。高畑は次のように指摘する。「研究者はその後、インセストの回避と外婚制の問題を同一視しがちであったが、前者は繁殖への悪影響に対応した生物学的レベルのもの、後者はレヴィ=ストロースを始めとする構造主義的解釈で理解可能な人類学的レベルのものとするバン・デン・バーグの結論」に導くようになった[高畑 1993:287; R.フォックス 1970]。
 レヴィ=ストロースは性のありかた、とりわけこのインセスト・タブーを前提に、動物との関係性において人間固有の制度である結婚を考えていた[レヴィ=ストロース 2001]。つまり、人間は親族構造においてある一定の親族からなる集団以外からパートナーを選ばねばならないという外婚規制をつくり、それの結果、集団間の女性の交換という事象を招いているといった。
 だが動物と人間の性について考えるとき、その境界線がかならずしもインセストについての問題だけでなく、セックスという行為が、行為者たちにとってどのような作用、意味をもつ/意味づけされているのかという問題がある。(『セックスの人類学』(春風社)を編んだきっかけ。)
3)人類学における社会制度としての結婚理論
人類学では結婚の定義や説明について、かつてから多くの論争をくりかえしてきた[グッドイナフ 、リーチetc.]。とくにリーチが結婚は権利の束である、と述べてからは結婚の定義について考える、という人類学者の熱は冷めたかにみえる。たしかにリーチはうまく言い当てているが、それは当時、先達の定義にそぐわない新たな事例、例外が多く報告されるにつけ、新たな結婚についての定義づけを繰り返す分類のゲームに終止符をうっただけである。しかし現在もなお、性の営みはさまざまな要因で変化しているにもかかわらず、人間にとって結婚とは、「結婚」という制度をうみだしたセックスへの意味づけについて考えることを放置していることにもなってはいないだろうか。また結婚という人間のつくりだした性の営みのカテゴリーのなかで、しかしそこでセックスはどんな意味、役割を担っているのか——。
 これまでも多くの人類学者が、婚外の性も含め抽象度もそれぞれに論じているが、人間が結婚という性にかんする制度をつくったかぎり、その制度の内と外をみることで当該社会の性のありかたをみることになる。しばしば、制度外をみることによってその制度そのものの特異性を導き出せることもある。
4)「結婚」の外
 「結婚」の外にある、恒常的な、しかも社会によってはあたかも制度のような男女の関係がアフリカ研究から報告されている。
 田川が報告しているエチオピアのボラナ社会の既婚女性の愛人のもちかた[田川 2009]、河合が調査したケニア・チャムス社会のランガタ—ンガンガダ関係のように、婚外の性の制度とよべるような愛人関係[河合 1993]、菅原が調査したブッシュマンといわれてきたボツワナにくらすクン・サン社会の結婚内外の男と女の関係のあり方 [菅原 1998]がすぐに思い浮かぶ。
 ここで、問題になるのは性行為とは、その社会においてどのような意味があるのか、人びとはどのように位置づけているのか、役割機能が課されているのか、結婚内と外についてはどう考えられているのか、ということである。それは、結婚をどう考えているのか、ということともむすびつく。性行為とは、オスとメスもしくは男と女の有性生殖という、動物、人間社会における再生産の目的、その本能から派生して生まれた性欲のため、他個体/他者とのコミュニケーション、あるいはその社会の秩序のコントロールなど、そのはたらきは行為がどういった場面で行なわれるかによって、その意味も多様に考えられうる。
 人間は性を、結婚という制度によって社会をコントロールしようとしたという前提のもと結婚についての議論もなされていた。ここにきてふたたび、当該社会における性観念、性交についての意味の認識、性にかんする制度の利用、そして子どもの嫡出性の考え方などをみる必要があると考える。

3.いま、人類学の立場から人間の制度としての「結婚」を考えるとは
 人類学において、「結婚」はタイラーの時代からの古典的テーマであった。定義の論争は近代人類学ともいえる時代になってラドクリフ=ブラウン、エヴァンズ=プリチャード、グッドイナフ・・などがMan誌に論文を発表、ディベートを行い、その後エドモンド・リーチが「結婚は権利の束である」とうまくまとめて以来、議論は封印された。しかし、その後さまざまな新しい民族誌的データが蓄積され、世界は大きく変わっている。とりわけ性観念や実践にはめまぐるしい変化がみられる。したがって、これまでのレヴューをもういちど今行い、それをふまえ現代の結婚の実践をみること、それをつうじて人間の結婚という制度の再考を行なう必要性があるだろう。
とりわけ人間社会の結婚関係における性が、その社会においてどのように営まれているのか、意味づけされているのか、当該社会の文脈にそって考える必要性が生じる。

<事例>ケニア・ルオ社会の場合
 ルオ社会では結婚の生活空間、ライフサイクル、日常と非日常、慣習的規範、「不幸」をもたらす超自然的ともいえる観念が、人びとの生活に大きな影響を及ぼしている。結婚をはじめ、レヴィレート、といった性にかんする制度、慣習的規範(儀礼的性交)、信念(チラなど)がたくみに絡み合って社会の営みが成り立っている。
 ルオ社会の秩序を維持するのに重要な要件は、ルオ人が考える、夫婦の性のしかるべき営みがスムーズに行なわれているかどうかである。したがって結婚年齢に達した未婚者とは、ある夫婦のいずれかと婚外のセックスを実践する可能性の高い存在であり、その婚外のセックスは当事者の属するダラ成員、とくに配偶者や幼子などの親族にチラとよばれる不幸、カオスをもたらす可能性が高いと考えられる[椎野 2008 ]。
 以上のように、社会人類学において、進化史的基盤のうえ「制度」という視点から結婚を考えるには、長年放置されていた結婚についての議論を再検討したうえで、性と結婚について、より各社会の文化的状況的文脈にそって再考し議論にのぞむ必要があると考える。

<参考文献>
フォックス、R(1977)『親族と婚姻 : 社会人類学入門』川中健二訳、思索社。
グッドイナフ、W.H(1977)『文化人類学の記述と比較』(寺岡襄・古橋政次訳)弘文堂。
長谷川真理子(1997)「生物における配偶システム」大庭健・鐘ヶ江晴彦・長谷川真理子・山崎カヲル・山崎勉編『シリーズ性を問う3 共同態』、pp.1−38、東京大学出版会。
河合香吏(1994)「欺かれる女たち—ケニア・チャムス社会の・・」高畑由紀夫編『性の人類学—サルとヒトの接点を求めて』世界思想社。
リーチ、エドモンド(1974)『人類学再考』(青木保・井上兼行訳)思索社。
レヴィ=ストロース, C(2001)『親族の基本構造』福井和美訳、青弓社。
椎野若菜(2001)「寡婦が男を選ぶとき」『アフリカ研究』59:71-81.
 —— (2003a)「ルオの寡婦と男たち」松園万亀雄編『性の文脈』、pp. 81-108、雄山閣。
 —— (2003b)「『寡婦相続』再考—夫亡きあとの社会制度をめぐる人類学的用語−」『社会人類学年報』29:107-134.
 —— (2008)『結婚と死をめぐる女の民族誌——ケニア・ルオ社会の寡婦が男を選ぶとき』世界思想社。
 —— (2009)「ケニア・ルオの『儀礼的』性交とは」奥野克巳・椎野若菜・竹ノ下祐二編『セックスの人類学』春風社。
椎野若菜編(2007)『やもめぐらし—寡婦の文化人類学』明石書店。
椎野若菜・奥野克巳・竹ノ下祐二編(2009)『セックスの人類学』春風社。
菅原和孝(1998)『語る身体の民族誌—ブッシュマンの生活世界〈1〉』京都大学学術出版会。
田川 玄(2009)「男が戦場にいくように女は愛人をもつ」奥野克巳・椎野若菜・竹ノ下祐二編『セックスの人類学』春風社。